やっぱり独身が最高♡なワケ

連続殺人犯に追われる夢で目が覚めた。久し振りにに見た悪夢、最近、男性につきまとわれたせいに違いない。

 

「結婚詐欺を装って不動産を買わせる人もいるんですよ」と言われて(へぇ〜、そんな悪い人がいるんだ〜!)と感心していたら本当に現れた。

 

奇しくもネガティヴなことですら願えば引き寄せるというのを実証したわけだ。

 

その男性は親しげに近寄ってきた。そしてあまり時間も経たないうちに「結婚しよう」と言ってきた。

 

さらに「お父さんの家は売って僕が始めるビジネスに投資してもらおう」とのたまう。

 

あまりにも絵に描いたようなセリフでむしろドラマでも観ているような気持ちになった。

 

そんな彼はどんどん調子に乗って、お金を脅しとろうとしてきたので、身の危険を感じた私は距離を置いた。

 

彼は日本人ではないが、渡部篤郎氏によく似ていた。私は昔、彼のドラマにかなりハマっていたのを思い出した。

 

彼の泣きの演技に魅了され、どんどんファンになり(結婚したい♡)と思っていたことも思い出した。

 

渡部篤郎氏は「ストーカー」というドラマでも熱演していた。現実に現れた渡部篤郎似の男性もストーカーのようになってから、そんなことを思い出したら、急に笑えてきた。

 

ただ、年始早々そんなことがあってからというもの、男性と一緒にいる際のデメリットにしか目がいかなくった。

 

例えば夫が「お腹空いた〜」と言うところを想像してみよう。

 

「ご飯つくってほしいの?でも、私お腹空いてないからそれってモラハラ?」とさらっと冗談を言う。

 

すると、夫は恐怖におののきながらもこんなブログを書くに違いない。

 

タイトルは「お腹空いたと言ったら嫁にモラハラ認定された件」

 

例えば夫が「部屋、掃除した方が良くない?」と指摘する場合はどうだろう。

 

私基準では全然汚くないため「お掃除マシーン買ってくれたのはありがたいけど、ボタン押すだけでしょ?もしかしてパワハラ?」と笑顔で言う。

 

驚きのあまり、夫は開いた口がふさがらないままブログを書かざるを得ない気分になった。

 

タイトルは「嫁がルンバすら使おうとしない件」

 

例えば夫が「ねぇ〜」と甘えてベタベタしてきたところを思い浮かべる。

 

ちょっと気分的に暑苦しく感じた私はさらっと「それってセクハラやん?お小遣いあげるから美女と遊んでおいで〜」と送り出すとしよう。

 

夫は目を見開いて、絶句しながらブログを更新するだろう。

 

タイトルは「ウチの嫁が異次元すぎる件」

 

結局、私が結婚しても毎日ハラスメントだらけで、夫にたくさんのブログネタを提供するだけに終わりそうな予感がしてきた。

 

恐ろしい、やっぱりこのまま、ずっと独身でいたい。

どうやったら自死を防げるのか

10年以上前に弟を自死で失って以来、私は毎日のように「どうやったら自死を防げるのか」を考え続けている。

 

正直、トラウマが強過ぎて、自死に向き合うのにものすごく時間がかかり、とてもではないが「自死を防ぐ」まで到達できていない気がする。

 

それでも私は考え続ける。

 

最近、アメリカの超人気ブロガーが、富士山の青木ヶ原の樹海に潜入し、偶然見つけた遺体をブログの動画にあげたことが問題視された。

 

特に議論されたのは彼がその遺体を見ながら冗談を言ったということについてであった。

 

ただそれはストレスに直面した際,能動的に対処した結果だとも語っていた。

 

その動画は元のサイトからは削除されていたが、別で保存されていたため、私は勇気を出して全てを観ることにした。

 

そこにはぬいぐるみの帽子を被った若いアメリカ人男性が、意気揚々と青木ヶ原に入って行く様子が撮られていた。

 

そして林の中には首を吊った男性が顔にモザイクをかけられた状態でしっかり映し出されていた。

 

ポケットにはお財布と思しきものなどが入っており、その1メートルぐらい離れたところにはカバンが置いてあった。

 

ただ眠っているだけと言われてもおかしくないくらい普通に見えた。

 

ブロガー達が警察を呼んだので救急車が到着した。

 

遺体の顔ははっきり見えないけれど、ファッションや持ち物から私よりはるかに年下なのではないかという印象を持った。

 

書きながら思い出しただけでも泣けてくる。

 

彼が自死した理由はわからない。ただ遺族のことを思うととても辛く悲しくなった。

 

日本では最近、30-40代の男性の自死がもっとも多いらしい。

 

氷河期しか経験せず、成功体験もない中、努力すれば報われた世代に結果を求められても、引っ張り出す引き出しがなく追い詰められるのだろう。

 

敗者復活がなかなか許されない日本において、自分ももし同じ状況にいたとしたら。気持ちはよくわかる。

 

自死は精神的に弱い人がするものだ、という意見もある。ただ私はそれだけが理由だとは思わない。

 

人間生きている以上、嬉しい時もあれば悲しい時もある。感受性が豊かということが時には良くも悪くも作用するということなのだと思うのだ。

 

フェイスブックで何気なく目にした動画はそれを裏付けるものだった。

 

駅のプラットホームに設置された防犯カメラにはスーツ姿の男性がはっきり映し出されている。

 

彼はカバンを壁に投げつけた後、携帯電話も床に投げつけ、とうとうしゃがみこんでしまった。

 

たまたまそこをバギーを押すご夫婦が通り過ぎた。

 

異変を感じたお母さんは男性が気になり、赤ちゃんをお父さんに見てもらって引き返した。

 

次の瞬間、男性が高速で通り過ぎようとする列車の前に飛び込もうとしたところ、お母さんは男性をつかまえプラットホームに引き戻した。

 

まさに間一髪、母強し!自分の危険を全く省みない行動に心を打たれた。

 

男性の半分くらいのほっそりとした女性のどこからあんな勇気と力が湧いてくるのだろう。

 

英語で特に教会ではよくBe the right person at the right time at the right placeという表現を耳にする。

 

意訳するとふさわしいタイミングと場所に置かれるふさわしい人になりなさい、ということで私もずっとそれを念頭に置いている。

 

まさにこのお母さんはそれを体現しており、大きな希望を感じた。

 

感動して涙が出て、何度も何度も繰り返し動画を観てしまった。

 

彼が電車に飛び込もうとした理由はわからない。ただその動作から怒り心頭し、絶望的なのはいやがおうにも伝わってくる。

 

脳科学の見地から怒りは6秒我慢すればおさまるのだという。

 

実際カッとなって人殺しをしてしまった人は、刑務所の中ではもっとも安全な人達の部類に入るらしい。

 

怒りからの自死、いや、あえて自殺という表現に置き換えた場合、6秒我慢すればおさまると解釈できるのではないか。

 

生きていれば必ず良いこともある。

 

感情をコントロールすることを学ぶことで、一人でも多くの方が生き続ける選択をし、何度でも立ち上がっては強くなる道を歩んでいくよう願ってやまない。

 

 

 

 

 

アジアで英語が飛躍的に話せるようになるためのたった1つの心得

世界的に見てもアジアの成長は著しい。特にシンガポールにいるとそれを肌で感じる。

 

シンガポールは特に治安や税制面で優遇されているため、名だたる大企業がアジア統括事務所を設立している。

 

先日もアジア太平洋地域のミーティングに同時通訳者として参加させて頂く貴重な機会を頂いた。

 

参加者は10ヶ国から参加しているが共通言語は英語である。

 

ただ一口に英語と言ってもこの地域で話されている英語には独特な特長がある。

 

この10ヶ国の参加者もオーストラリアやニュージーランドを除いて英語を第二外国語として話しているのだ。

 

シンガポールは中華系、マレー系、インド系という人種で構成されており、家族とは福建語、広東語、マレー語、ヒンズー語で話していることが多い。

 

よって、英語を第二外国語として話す場合、英語を母国語として話している方達とは異なるコミュニケーション方法が必要となる。

 

これさえ体得すればアジアにおいて英語力は飛躍的に伸びる。

 

それはずばり「空気を読まないこと」である。

 

コミュニケーション図る際に空気を読んでしまったが最後、欲しい答えにたどり着けないこともある。

 

日本ではわざわざ知っていることを口に出すのは冗長だと思われる。

 

そもそも同じことが当たり前の国なので、わかっていることはとばす。

 

しかし、海外で同じ方法でコミュニケーションをするとなかなかうまくいかない。

 

なぜかというと「これは当然わかっているはず」と思われることが実際にはわかられていないことがほとんどだからだ。

 

わかりやすい例を挙げよう。

 

先日、ミャンマーのホテルで朝食のビュッフェを頂いていた。

 

前日の様子からランチは単品で注文する雰囲気だったのでミャンマー人のスタッフに英語で質問した。

 

「ランチは何時からですか?」

 

「10:30までです。」

 

意表を突かれるが、私の質問の仕方がまずかったなと即座に反省した。

 

正直、私の質問は間違っていないし明白だ。

 

ただ自分が欲しい回答が得られない場合、自分のコミュニケーション方法を改善するしかない。

 

代わりに私はこう話した。

 

「この朝食ビュッフェは10:30に終わりますね?」

 

「はい」

 

「その後、ランチの単品は何時から頼めますか?」

 

「12:00からです。」

 

「ありがとう。」

 

という流れで話は終わった。

 

第二外国語として英語を話している以上、英語力にはバラツキがある。

 

だから、まず私が質問したい内容について、日本だったら「空気」と扱われ、わざわざ口にしないことも敢えて口にするのだ。

 

毎日わかりきっているルーチン作業を指差し確認するような感覚に近いかもしれない。

 

そこでまず最初に「共通理解」という土台を作る。

 

それはお互いの中に「安心感」を生みだす効果もある。

 

日本人同士でも初対面の場合、セミナーでは「共通点探し」から始めたりする。

 

この「空気の言語化」はそれを最速最短で行なっているようなものだ。

 

空気は言語化するまで全く異なるものだというぐらいに思っている方が良いだろう。

 

どれくらい違うかというと食文化ぐらい違うのではないか。

 

お刺身を見ると日本人は「おいしい♡」という人が大半で、海外でもファンが増えているものの「お腹壊すから絶対に無理」という人も大勢いる。

 

シンガポールでも、中華系はビーフを避ける人が多く、マレー系はポークがダメで、インド系はベジタリアンという具合に様々だ。

 

英語をそれなりに勉強していた私は、当地に来たばかりの頃は(なんで私の英語は伝わらないの?)と悩ましいことも多かった。

 

でも今となっては、どんどん質問をしてその空気の違いを知っていくのが楽しくて仕方がない。

 

 

 

 

なぜブログは毎日書く方が良いのか。

「ゆみさん、最近あまりブログ書いていませんね。」

 

一般社団法人ウェブ解析士協会会長、江尻俊章氏が笑顔で言った。

 

確かに最近、諸々の理由でブログ更新頻度が落ちていた。

 

江尻氏曰く、なぜ毎日ブログを書くのが良いのかというと、文章は毎日書いていないと、いざ本を書くとなった時に書けないからだそうだ。

 

確かにブログを書き始めたのは、いつか本を書きたいという思いがあったからだ。

 

書きたいこと、それはもうたくさんある。

 

世間を賑わすあんなこと、こんなことを私なりに内観し、消化した結果思うことを共有したい。

 

数え上げればキリがない。

 

でも、最近は「熟女」について書いたブログへの反応が嬉しかったので、「せっかく書くならウケることを書かなくっちゃ」と一人で気負っていた部分はある。

 

江尻氏にはそこも「透えて(みえて)」いたようだ。先生にはバレている。

 

「立場上、書いてはいけないと思われること」も取っ払って書きたいことをひたすら書く、これが良いらしい。

 

「ウケたい、どうしても笑ってほしい」

 

この願望が非常に強い私は、オチが思いつかない話は書きたくなかった。

 

先にオチが思いついてからそこに繋がる文章を書くようにしていた。

 

それは遡ると大昔、大阪の人と話をしている時に

 

「で、オチは何なん?」

 

とツッコまれたことに起因する。

 

関西ではオチがない話をすると「イラッ」とされるのだ。

 

あの何とも言えない空気感は耐えがたい。

 

だから「オチ=エチケット・最低限のたしなみ」という理解が今も根本にあり脳裏に刻み込まれている。

 

でも大昔というのは20世紀の頃の話。

 

今は21世紀、しかもかなり経っているではないか。

 

私はもっと自由にこれから自分が真におもしろいと思うことについて、どんどん書いていくことにする。

 

なんでも書く。もはや女性、ヒトという枠を超え、人格崩壊と思われても書く。

 

私は誰に対して何の宣言をしているのか、もはやわからないが、とにかく書こう。

 

ただ、結果的に、私のブログがおもしろいか、おもしろくないかについては、読者の感性によるだろう。

 

だから、そこに対して「私は一切の責任を持つことができません」という「免責事項」もこの際だから明記する。

 

読者の感性は私のコントロールできる範囲に及ばない。

 

人は自分がコントロールできるところだけにフォーカスするのが良い。

 

私もどんどん書く、ひたすら書く、それに専念したい。

 

江尻さん、背中を押して頂き、本当にありがとうございます!

 

そしていつも読んで頂いている皆さん、読んで頂いて心から感謝しております。

 

読むだけで皆さんに凄まじく良いことがたくさん起きますよう願ってやみません♡

しつこい「怒り」への対処法

お正月明けに尊敬する先輩とランチをした。その方は「私の人生を変えるプロジェクト」に誘って下さった恩人でもある。

 

いつもおごってもらってばかりだったので、心ばかりのお礼にランチをごちそうしたかった。

 

久々に会った先輩はお仕事もプライベートも充実しているようだ。

 

中でも印象的だったのは、随分前に亡くなられた世帯主に変わって、母国の親御さんに家を建てて差し上げたというお話だった。

 

一つ大仕事を終えた先輩は、来年にはご自身も今のお相手と落ち着かれる予定だという。

 

先輩と出会ってもう10年以上経つので感慨深くて涙が出そうになった。

 

先輩とは共通の友人を介して知り合ったが、彼らが帰国した後、しばらくは連絡を取っていなかった。

 

数年前、プロジェクトに必要な人材を探しているということで、再び共通の友人から連絡があって引き受けることにした。

 

当時、軽い気持ちで関わったプロジェクトは、予想を遥かに上回る大変さで、何度も逃げ出したくてしょうがなかった。

 

先輩には対面でもチャットでもありとあらゆるフラストレーションを投げかけたが、いつも持ち前のスマートさで善処して下さった。

 

思い起こせば、私は先輩の中に「父親」を見ていたようだ。

 

(私も 実家の父親に恩返しができるのだろうか)

 

父親への恩返しは常に念頭にありつつも、いつも後回しになっていた。

 

そんなことを考えていた矢先、友人のお誘いで瞑想のワークショップを受けた。

 

一度先生にお会いしている友人によると、とてもステキな先生らしくオススメだという。

 

ブルガリア出身の先生はヒーリングを得意としており、白地に赤い小花柄のワンピースがよくお似合いだった。

 

瞑想を始めるにあたり、まずはセージでお清めをするらしい。

 

こういうワークショップに来たら、基本、私は「まな板の上の鯉」状態で「諸々お任せ」というスタンスをとる。

 

人生は一度きり、何でも試してみたいことは試したい。

 

今回も白紙で挑んだのだが、最初から頭痛がして眠ってしまった。

 

正直なところ、だいたいこの手の瞑想ワークショップに参加すると終始、睡眠学習となる。

 

それでもみんな癒しを得意とする人達ばかりなので「睡眠学習の方が脳にダイレクトに吸収されるから良いよ」と暖かく笑顔で励まされる。

 

どうやら「高次元の波動にチューニング」をしているらしく、それに慣れていない人は頭痛がするらしい。

 

先生はいろいろと説明をしていたけれど、睡眠学習真っ只中で、誘導瞑想が始まった。

 

色をイメージングしながら取り入れたい感情などについて瞑想する。先生がおっしゃっていることは実に真っ当だった。

 

頭痛と眠気で朦朧としながら私が記憶しているのは「喜び」についてのセッションだった。

 

先生が「喜び」を吸って吐くようにと誘導している。

 

ところが私の心の中には「怒り」しかないのだ。どんなに「喜び」をイメージしようとしても「怒り一色」なのだ。

 

終わってからみんなは感想を述べた。身体中が「喜び」に満たされて楽しかったらしい。

 

頭痛、眠気、エアコンの寒さに耐えながら私は先生に率直に伝えた。

 

「『喜び』どころか『怒り』しか湧いてきません。」

 

みんなが帰った後も先生と友人と3名で質疑応答する時間を持った。なんとなくその場は納得した。

 

通常、1日目で不調の場合、2日目はお休みをするのだが、今回も悩みに悩んで2日目はお休みした。

 

(こんなにも長い間ヒーリングをしているのに、まだ手放せない感情があるなんて)

 

「怒り心頭の自分」に対しても「怒り」が止まらない。

 

朝から具合が悪く、お腹も痛ければ、食欲もない。もう寝るしかない。

 

いろんな夢を見た。カラフルな夢、楽しい夢、焦る夢、心配になる夢。。。

 

中でも一番強烈だったのは父親の夢だった。

 

私の部屋のレイアウトが父によって勝手に変えられている。そこにあるべきものが見当たらない。

 

私は全身全霊で「怒り」を感じていた。

 

目が覚めて、相変わらず、具合が悪く、お腹も痛ければ、食欲もない。

 

でもこれ以上寝るのも疲れる、ということで起き上がる。

 

どうやら、しつこい感情は夢の中で手放されるらしい。

 

父親の夢、これはとても象徴的だった。父親のお陰で成長できた自分と、父親の思惑の中で思い通りに生きられない、そう信じていた自分。

 

今となってはどうだろう。母国から遠く離れ、好きなように生きている。にも関わらず私の心の奥底は当時の私の「念」に束縛されたままだったのだ。

 

自分でわかってはいるものの、目を背けたい感情は、奥底に追いやられたまま、陽の目を見ることをしらない。

 

それでも「怒り」に向き合い、「怒りを手放す」と決めた瞬間に、解決策が降ってくるのだ。

 

「夢の中で手放す」、なんとも受け身に聞こえるが、人生が良くなるのなら、手段を問いてはいられない。

 

振り返ると「悲しみ」、「恐れ」、「嫉妬」、「怒り」を順番に意識的に手放しているのがわかった。

 

今年こそはもっと父親に親孝行できる年にしたい。

一刻も早く「怒り」を片付ける方法

新年明けましておめでとうございます。旧年中も大変お世話になりました。今年もよろしくお願い致します。

 

新年早々、なぜお題が「怒り」なのか。それは私が尊敬してやまないコピーライターであり、ブロガーの熊谷真士氏がそれについて書いていたのを読んだからである。

 

彼らしい文章で今回もオチがおもしろかったので皆さんもぜひ読んで頂きたい。

 

それに触発されて私が最近、珍しく最も怒り心頭したが、消化して、今となっては笑いのネタにしていることについて書くことにする。

 

それは、昨年、親戚の結婚式に出席するため弾丸帰国をした時のことだ。

 

成田空港で日本人向けの列に並んで入国審査を待ち、いよいよ自分の番が来た。

 

すると!思いがけず、こんな質問が投げかけられた。

 

「再入国ですか?」

 

深夜便で着いたばかりの、寝不足で普段以上にぼやっとしている私に、入国審査官はゆっくりとこう言った。

 

「中国からですか?、再入国はあちらですよ。」

 

寝ぼけている私にも何が起きているか、ようやくわかった。

 

その時、私は瞬間湯沸かし器のように自らの内側に燃え上がる「怒り」を感じた。

 

「日本人です。」

 

絞り出した声は生まれて以来、自分史上もっとも低かったに違いない。

 

「すみません、目までおかしくなったみたいで。」

 

ますます驚いた私は即座にその場を後にした。

 

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湧き上がった「怒り」、私は何に対して怒ったのか。

 

「日本人であるにも関わらず外国人に間違われた。」

 

「怒り」を引き出したトリガーとなったのは、確かにそこに違いない、ただ本質的にはどうなのか。

 

私が外国人に間違われるのは日常茶飯事だ。初対面で、外国人も日本人も私がなに人なのか、もはやわからないと言って一様に唸る。

 

今となっては食べるものも着る服も持ち物も多国籍化しているので当然だと認識している。

 

だから、私が「怒り」を覚えたのはそこではなかった。

 

「怒り」の構成要素、それは

 

「日本人の列に並んでいる私は、正しいことをしているにも関わらず、間違っていることをしていると疑われた。」

 

ひとことでいうと「冤罪への行き場のない憤り」

 

そして

 

「関空みたいに自動化ゲートだったらこんな想いをしなくて済んだのに。」

 

という「非効率性への苛立ち」

 

加えて

 

「ベテランの入国審査官のお声掛けが、善意からとはいえ、私によって『事実とは異なる認識による失言』ととらえられた」

 

いわゆる「『弘法にも筆の誤り』に対する驚き」

 

もっというと

 

「まずはパスポートを確認して欲しかった」

 

という「業務プロセスへのツッコミ」

 

「自分の後ろに長蛇の列があるので一刻も早くこの場を立ち去らないといけない」

 

という「無言のプレッシャーへの焦り」

 

さらに

 

「意に反して恐縮してしまった入国審査官の気持ちを慮って、気の利いたジョークのひとつも返せなかった」

 

いわゆる「自責の念」

 

OH NO!こんなにもある「怒り」の理由!

 

たったひとつのボタンのかけ違いがこれほどまでに複雑な「感情のドラマ」を引き起こすなんて。

 

正直、諸々「後付け」な感じを否めなくもない。ただこれだけのことが頭を駆け巡っていたのも事実だ。

 

これだけ列挙した時点でかなり「感情」を「思考」で客観視できているので「消化できた」と言えるだろう。

 

そして、この場合の「怒り」を抑えるポイントはまさに「怒り」を生み出したと思われる相手が「本当にしたかったこと」、つまり「意図」を「思い出す」ことだった。

 

入国審査官が長年のキャリアを積んでいることは彼の容姿から一目でわかる。

 

私を中国人だと思ったからこそ、丁寧にゆっくりと話しかけて下さった。

 

そこには「思いやり」しか存在しないのだ。

 

私も次回からは、そんな彼の「思いやり」に応えられるべく、先にパスポートを見せてからマスクを外そうと思う。

 

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日本への外国人訪問客数は年々増加の一途を辿る。

 

2011年の約500万人から2016年にはなんと約2400万人まで増えたというのだ。

 

私は日本人の「思いやり」、もっというと「おもてなし」が外国人にきちんと伝わることを願ってやまない。

ゆず「桜木町」を聴いて「口づけ」から得た考察

「夏色」から20年、まさかシンガポールでゆずっこになれるなんて誰が想像できただろう。

 

生きていると良いことがおきる。どんどん夢が叶って嬉しい、幸せ♡

 

グッズも8種類全部買った。

 

Tシャツ、バッグ、ポーチ、ぬいぐるみ、ボトル、タンバリン、タオル、携帯ケース、夢の大人買い!

 

「そんなに買っちゃって結構な金額だったでしょ?」

 

大丈夫、245ドルも20年で割ったら割安感が勝る。

 

これから節約のため毎日チキンラーメンで過ごせるくらい幸せ♡

 

抑えていたゆず愛があふれだしてとまらない。

 

コンサートについていっぱい書きたいことがある。

取り急ぎ印象に残ったのは「桜木町」だった。

 

横浜勤務をしていた時によく言ったので懐かしいというのもある。

 

観覧車が目に浮かびつつ「口づけ」という歌詞に心が惹かれた。

 

(おぉぉ〜、なんという古風さ!)

 

久々にきく言葉、「口づけ」

 

では「口づけ」を最後にしたのはいつだろう。

 

「口づけ」、しかも「最近の」という形容詞がついた場合。


遠い目になりながら記憶をたどった。

 

 


思い出すのはそう、

 

 


それはお気に入りの。。。

 

 


「マグカップ」

 

 


その前は

 

 


「ストロー」

 

 


さらにその前は

 

 


「チューペットのプラスチック」

 

 


(うっ。。。。。。。。。)

 


気が付けば、全部、無機質なモノばかり。


モノ、そう、ものにも命は宿っている。


ただ、ゆずの言っている「口づけ」はそういうことではないだろう。

 

 


(口づけ。。。)

 

 


「口づけ」、「最近の」、に加えて「生き物と」を加える。

 

 


思い出した!!!

 


最後に「口づけ」した生き物。

 

 

 

それは。。。

 


黄色いヘビだった。しかもかなり大きめの!

 

私は神経言語プログラミングというNLPのセミナーでボランティアをしている。

 

そこでは基本、言葉やイメージングの力でメンタルを強くしようという試みがいくつか行われる。

 

その中のひとつとして黄色いヘビがかかさず登場するのだ。

 

コーチは初めての受講生にコーチングをする。

 

われわれのメンタルは常にひとまわりもふたまわりも強くなければならない。

 

今回のセミナーは忙しくてお顔を出すしかできなかった。

 

一瞬顔を出しただけだった。にも関わらず私を待ち受けていたのはそう「ヘビとの口づけ」だった。

 

ヘビに「触れる」「クビに巻く」までは問題ない。

それはもう過去に経験済みだった。

 

しかし、常にお互いの成長だけを考え続けるコーチ達。容赦ないリクエスト。

 

「せっかく来たからヘビに口づけして♡」

 

(えっ?!)

 

どうやらコーチは全員、ヘビとの「口づけ」をすでに終えていたらしい。

 

 

(うぉぉぉぉぉぉぉぉ、なんでやねん)

 


心に雄叫びがこだまする。

 


(OH NO! イヤ過ぎるねん。。。。。)

 


ただ、やると決めた以上は動画を撮るしかない。

黄色いのヘビ。

 

気がつくとあっという間にクビに巻かれていた。

 

カメラ目線になりつつヘビをよく見ると途中、下をペロペロ出す。

 

「うわぁ、気持ち悪い」

 

日本語で言ったのにヘビはどんどん顔をそむけていく。

 

生き物だけに嫌がられているのを察しているに違いない。

 

コーチ仲間がヘビの顔を私の顔に寄せる。

 

そういうのだけは見事にかわす。

 

その気のないヘビ。

 

イヤがる私は正しい「持ち方」がわからず片手で首回りを握っていた。

 

動画で見て後で気が付いた。私はヘビの首をほぼほぼ絞めかけているではないか。

 

これは動物愛護団体に訴えられてもおかしくないレベルだったとしごく反省した。

 

かなり重いヘビ。

 

私の口のすぐ側にあるおしっぽにキスするということでなんとかやりすごそうと画策するが却下される。

 

へびつかいしのアドバイスに従って持つ手を変える。

 

ヘビと向き合って目が合う。

 

舌をペロペロ出し入れしている。

 

(万が一、フレンチキスに発展してしまったら。。。)

 

大きめのヘビだけにのみこまれてしまうかもしれない。

 

どう考えても正面からの口づけは厳しそうだ。

 

(「頬にそっと口づけ」作戦でいこう!)

 

「。。。。。。。」

 

(さらに怖いから目を閉じよう。)

 

早く終わらせたかった。

 

一度フライングしたものの無事に「口づけ」完了!

 

(やったぁ、やっと終わった。。。)

 

本当に怖かった。気持ち悪かった。

 

申し訳ないけれどそれがホンネだった。

 

「口づけ」とは何かの儀式のようだ。

 

特に口と口をあわせる「口づけ」の「ハードルの高さ」について今更ながらよく理解できた。

 

コーチ仲間が撮ってくれた写真を見てあとで気づく。

 

(ありえない。。。笑)

 

静止画で見ると「余裕で口づけをしている」ようにしか見えないのだ。

 

あの恐怖と嫌悪感にまみれた体験が恍惚と至福にあふれる体験かのように見える「奇跡の一枚」!

 

別にいつものように画像修正技術を駆使したわけでもない。

 

でも、内心(早く終わって欲しい)なんて思っている様子は微塵も見受けられない。

 

このギャップには我ながら驚かされた。

 

過去のどの瞬間を選ぶのか、どのイメージを切り取るかによって「意味付け」は見事に変わるのだ。

 

そんなことを考えていたら、もっとゆずの歌を聴きたくなった。