あわせて読みたい「オーバーフロー理論」加速法

堀江信宏氏がお亡くなりになられた。マイケル・ボルダック氏を始め多くの講師をプロモートされた実績に加え、最近はご自身も著書「自問力」を出版されていたそうだ。

 

数年ぶりにマイケル・ボルダック氏のテキストを手にした日が、偶然にも彼の命日だったことが後でわかった。


私自身、これから展開するコーチングセッションの内容を固めている時だったので、バトンを渡された気がした。


そこで、先日、独自の「オーバーフロー理論」について書いたら反響があったので、続編を書く。


あふれさせて余らせてシェアする「オーバーフロー理論」、これを加速させるにはどうしたら良いか。


有効手段はただ一つ。それは「自分をあふれさせたら、周りの人もあふれさせる」ことだ。


「源泉説」、つまりこれは「性善説」のように人にはそれぞれ生まれてきた意味があり、才能の源泉があるのだという前提にたっている。


「才能の源泉の見つけ方」については、長くなるのでまた別途説明したい。


最近はお仕事を通じて出会う方々と補完関係が構築されることが多い。


その結果、お互いのアイデアや経験、人脈によって相乗効果が生まれることもあるのだ。


お仕事によって関わり方は違うけれど、普遍的なのは以下のパターンである。

 


(1)「現状」となる「今のあり方」について把握する。

 


(2) これまで何に時間と情熱を注いできたのかという「過去」を知る。

 


(3) 何を目指しているのかという「未来」の「理想のありたい姿」を理解する。

 


(4) 「今のあり方」と「理想のありたい姿」のギャップの原因を分析する。

 


(5) ギャップを埋めるために自分のリソースを用いてどんな風にどれだけ貢献できるかを考える。


このステップはいわゆるコーチングやコンサルティングでよく用いられている手段かもしれない。

 


私が強調したいのは(5)番。基本的に私と関わる方、特にお客様と関わる上で私が常に念頭に置いている信条がある。


それは「一粒万倍の法則」だ。これは「一粒万倍日」にちなんでいる。


ウィキペディアによると詳細は以下の通り。

 


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「一粒万倍」とは、一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になるという意味である。一粒万倍日は何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。


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具体的にどういうことなのか。


お守りや縁起の良いものが大好きな私は、引っ越しをする度に大量にたまったお守りなどを見てある時ふと思った。


(「いっそのこと私自身が歩く「ラッキーアイテム」、「パワースポット」になれないものか。)


ちょっとぶっとんだ発想かもしれないが、憧れの方々がみんなそんな感じだったので真顔で真剣にそう考えた。


そもそもなぜ人はこうしたものに惹かれてやまないのか。


お守りを見る度にプレゼントして下さった方の気持ちと共に「私はいつも守られている」というのを思い出す。


パワースポットで得られるリラックス効果は高く、心を癒してくれる。


そんな風にうまく活用される一方で「他力本願」あるいは「自分にはまだ足りていない」という潜在意識の気持ちを助長する場合もあるのではないか。


何事もバランスが大切だ。


「ラッキーアイテムやパワースポットのような人物」に関しても同様である。


「ホンモノ」は彼らと一緒にいることが気持ち良くても、決して彼らに対する「依存心」を引き起こしたりしない。


代わりに「本人の中にどれだけすばらしい可能性は眠っているのか」に気付かせ「自立を促す」人達だと思う。


「叶わないと思える大志ほど叶いやすい」とはよくコーチの間で語られる信条である。堀江信宏氏もブログでこのフレーズに感動したと書かれていた。


それ以来、私は通訳やコーチングセッションをご依頼して頂いた方に対して、彼らが私に費やしたお金や時間がより良い形で、何万倍にもなって返ってくるよう常に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21世紀に提唱したい「オーバーフロー理論」とは

ビジネスにおける関係性を説く上で、巷でよく耳にする言葉がある。それは「ギブアンドテイク」であったり「ウィン-ウィン」だ。

 

実際私もよく使っていたのだが、気が付けば徐々に違和感を覚えるようになってしまった。

 

例えば「ギブアンドテイク」について。これは至極、最もな表現に間違いない。

 

「ギブ」するから当然「テイク」をする。当たり前に聞こえる。

 

でも実際には「ギブ」「ギブ」「ギブ」がいっぱいあってからの「テイク」らしい。

 

ただある時私は気付いてしまった。ミッション系の学校に通っている頃から、寄付をしたりボランティアをし続けているせいだろうか。

 

私は時間もお金もつい「ギブし過ぎる」傾向に陥りやすいことがわかった。

 

ふと周りの女子達を見てもそうだった。「人類愛」「慈悲深さ」に目覚めれば目覚めるほど、同じような傾向にある。

 

「困った人を助けたい。」「喜ぶ顔が見たい。」だからかかる経費は自分で負担してでも無償でサービスを行う。

 

結果、どうなるかというと、いつのまにかお金が減ってしまい「自分の身を削るような感覚」になり、健康を害してしまう人も出てくるのだ。

 

では「ウィン-ウィン」はどうだろう。これなら関係者がみんな恩恵を受けるイメージがわきやすいだろうか。

 

「ウィン=勝つ」のは良いことだ。ただ「勝ち組」を明確にした時点で同時に裏側には「負け組」が存在してしまう。

 

勝った方は良いとして負けた人はどうなるのか。

 

「どこにでも競争原理は働くのだから、地上に桃源郷を求める方が理想主義的ではないか。」

 

そんな声も聞こえてくるかもしれない。それでも直感的に何かもっとしっくりくる言葉があるはずだという想いが募った。

 

しぶとい私はひそかに探求を続けた。そしてようやく浮かんできた言葉があった。

 

それが「オーバーフロー理論」である。最近はこの言葉が好きで、よく使っている。

 

なぜ「あふれ出る」なのか。今、まさに地上から湧き出る水を想像して欲しい。

 

そんな風にそれぞれの人からその人が「好き、得意とすること」があふれているとする。

 

みんなはその「好き、得意とすること」を徹底してやり続けて、もっともっとあふれさせる。とことんまで余らせる。

 

すると自分も周りも使いきれないほど余ってくるので、あとはもう共有するしかなくなってくるのだ。

 

手前味噌ながら、私自身の事例に置き換えて説明したい。この仮説をもとに実証実験を行った結果これに気付いたのだ。

 

小学校の卒業文書に書いた将来の夢。それは「通訳かレポーター」だった。

 

めぐりめぐって最終的にこの好き、得意な通訳の仕事を本業にした。

 

やればやるほど楽しくなり、通訳を極めたくて英検1級に合格、同時通訳者にもなった。

 

抗うことなく徹底して道を突き進んだ途端、多方面からお声がけを頂き、自分だけでこなせなくなってきたので、周りの通訳者にもお仕事をシェアできる状況が出てきた。

 

最近では通訳のお仕事を通して出会った方に「レポーターをやるのが夢だったんです」とお伝えしたところ、貴重な機会を頂き、もう1つの夢も叶った。

 

彼はベストセラー作家でレイクサイド多摩FMでラジオ番組をお持ちの稲村徹也氏。

 

経営者の彼もまた「好き、得意」を大いにあふれさせ、ご自身のみならず多くの方の夢を叶え続け成功している。

 

いつのまにか周りにはそんな風に「好き、得意があふれ出ている人」ばかりになって、毎日、豊かさが循環している。

コーチングの効果を高めるたった1つの質問

先日、私は「おばさん」と言われて、久々に立腹した。

 

「おばさん」、アラフォーなのでそう呼ばれても当然である。間違っていない。

 

「おばさん」「おばさん」「おばさん」

 

何度も言われて余計に怒りが増した。

 

しかも私を「おばさん」と呼んだ方は、ご自身が「おじさん」であるから年が近い私を「おばさん」と呼んでいるだけらしい。

 

となると「男子トイレ」「女子トイレ」レベルである意味、客観的に公正な立場でのまっとうな発言ではないかとも捉えられる。

 

(イヤァ〜、イヤなものはイヤやねん。。。)

 

「おばさん」、そう呼ばれて、頭で「客観的事実」とわかっても一度心に広がった違和感は隠しえなかった。


なぜなのか。怒りが収まって冷静に考えた。


私はコーチなので自分に問いかけた。こんな時、コーチングの質問は役に立つ。


そう、困った時のキラークエスチョン。

 


「本当は何がしたかったの?」

 


もう、これ、この質問に尽きるのではないか。

 

この質問の答えが出れば、心理的モヤモヤ感の謎解きに8〜9割は成功したと言えるだろう。

 

この質問を私の文脈にあてはめて自分に問いかけた。

 

 

「本当はなんて呼ばれたかったの?」

 

 

この問いかけの良いところ、それは問いかけた時点で「怒り」から離れて少し遠くから自分を観察できるようになるという点だ。

 

深呼吸をして、リラックス。自分の心の中を冷静に見つめる。

 

潜在意識にしまわれていた真の気持ち。心の内側で沈黙を貫く声のない雄叫び。

 

私は自分に問いかけ続けた。

 


「本当はなんて呼ばれたかったの?」

 


そしてようやく答えを見つけた。

 


(えっ?!)

 


私は絶句した。そこで浮かび上がった答えに私自身驚かずにいられない。


その答え、それは

 


「本当はおじさんと呼ばれたかった」

 


(ぷぷぷ)

 


意外だった。

 

「おばさん」と呼ばれた場面を思い出す。すると私以外は全員、男性だった。

 

「おばさん」と呼ばれて一人だけ女性であることに気付かされたところがあった。

 

それはつまり孤独と疎外を感じた瞬間でもあったのだ。

 

ちょっと大げさに書いているので、自分でも(おかしいな)と思うけれど続ける。

 

これまで私は「おじさん」と呼ばれたことはない。

 

でももし仮に「おじさん」と呼ばれたら。なぜかすごくしっくりくるだろう。

 

むしろ「おじさん」と呼ばれることに喜びすら感じる。なんというか単純に嬉しい。

 

ただここはちょっと複雑で、最近、働く女性の鏡のような勝間和代氏が同性愛であることをカミングアウトした。

 

でも、私は女性に性的興奮を覚えることはなく、恋愛対象は一貫して男性(イケメン)である。

 

では、なぜ「おじさん」と呼ばれたいのか。

 

どうやら私は「おじさんには問題解決能力が備わっている」と肯定的な意味付けをしていることがわかった。

 

「おばさん」だって問題解決をしているのだけれど、どちらかというとこれは自分の両親から受け継いだものらしい。

 

お父さん=おじさん=理系=淡々と問題解決

 

お母さん=おばさん=文系=全てに感情が優先

 

といった具合である。

 

ある説によると、女性は1ヶ月のうち1週間しかハッピーではないらしい。それは全てホルモンバランスやバイオリズムに関係するらしい。

 

「月のものがなければ、もっと肉体的にラクになってもっとたくさんのことをこなせるのに。」

 

そんな心の叫びまで聴こえてきた。

 

心の内側が望むものに耳を傾けたら、改めて自分にとって大切な価値観は「問題解決」だとの認識を得た。

 

「おばさん」と呼ばれること。これは特にハラスメントに該当するわけではないかもしれないが、違和感を感じた時こそ、本当の自分の願望に気付かされるのだと思う。

赤道直下で燃えたぎる熱い漢「岡田兵吾」の実態

リーゼントマネージャー、岡田兵吾氏。今朝、メッセンジャーで彼と熱い会話をした。かなり熱く、私だけの中にためておくのはもったいないので早速ブログにしたためたい。

 

彼は何を隠そう元同僚である。遡ること15年前、ジョブホッパーな私が最も長く勤務をしたマイクロソフトで出逢った。

 

私のデスクはパントリーへ続く通路にあったため、飲み物を取りに行くついでによく話しかけてくれる人達も多かった。

 

岡田兵吾氏も例にもれず、よく立ち寄ってくれたうちの1人だ。シンガポールに来たばかりだった彼に私と隣の席の日本人の同僚は一緒に質疑応答セッションのごとく楽しくアドバイスをしたのを思い出す。

 

シンガポールでどこに住むのが便利か、どこで買い物するのが良いのかなどと生活について話をしていたかと思うと、気が付けば憧れの人物について話はとんでいた。

 

岡田兵吾氏は落合信彦氏にかなり感銘を受けているようだった。私にとってはビールのCMに出ていたあの人というレベルの認識であったため、兵吾さんの口を通して何やらすごい人だというのを学んだ。

 

そして私も尊敬して止まない大前研一氏の名前もあがった。マレーシア、シンガポール両国の政府にコンサルティングを行った彼に畏敬の念しか湧かない。

 

さらに話はどんどん発展し、彼が信条とする「ハードボイルドとはなんぞや」という話も思い出す。漢たるもの、女子を追いかけ回してはいけないらしい。

 

あれから15年。あの頃を振り返ると本当に懐かしい。世間一般から見れば既に良い年をしていたはずなのだが、人一倍感情の振れ幅が激しかった私には、自分自身の人生をコントロールできている感触が持てず、消化不良な日々を送っていた印象が強い。

 

そんな私とは対照的に、岡田兵吾氏には徹底した一貫性が見られる。15年経った今日も、彼はあの頃と同じリーゼントで、変わらぬ情熱で落合信彦について熱く語っていたのだから。

 

恐らく私と出会う前の彼を知っている人も、同じことを言うに違いない。彼はいつも自分が信じていることについて多いに語り、行動につぐ行動で今までずっと走り続けている。

 

4年間オンライン上でエッセイを書き続け、満を持して初出版、既に重版も決まり目標を達成できたという彼は「続けるというのが大切なんですよ」と噛みしめるように口にした。その時、私は彼の魅力を垣間見た気がした。

 

既にもらっている読者からのフィードバックを元に次に何をするかも考えている彼は、命尽きるまでこの先もこうしてずっと走り続けていくのだろう。

 

さらに彼は私にも本を書くことを強く勧める。彼が私に一貫して励ましてくれている内容から「サバイバルコミュニケーション術 〜カッコつけずにベタに伝える英会話〜」というタイトルが浮かんだことをここに記したい。

 

シンガポールでは4月13日(土)、14日(日)の2日間は日本人会でイベント及び書籍販売も行われるらしい。13日(土)にはぜひとも駆け付けて彼の著書にサインを入れてもらおうと思う。

 

初出版を経てますます熱くなる岡田兵吾氏が、どんな熱い行動を繰り広げ、周りにどんな影響を巻き起こすのか。しばらく目が離せない。

 

やっぱり独身が最高♡なワケ

連続殺人犯に追われる夢で目が覚めた。久し振りにに見た悪夢、最近、男性につきまとわれたせいに違いない。

 

「結婚詐欺を装って不動産を買わせる人もいるんですよ」と言われて(へぇ〜、そんな悪い人がいるんだ〜!)と感心していたら本当に現れた。

 

奇しくもネガティヴなことですら願えば引き寄せるというのを実証したわけだ。

 

その男性は親しげに近寄ってきた。そしてあまり時間も経たないうちに「結婚しよう」と言ってきた。

 

さらに「お父さんの家は売って僕が始めるビジネスに投資してもらおう」とのたまう。

 

あまりにも絵に描いたようなセリフでむしろドラマでも観ているような気持ちになった。

 

そんな彼はどんどん調子に乗って、お金を脅しとろうとしてきたので、身の危険を感じた私は距離を置いた。

 

彼は日本人ではないが、渡部篤郎氏によく似ていた。私は昔、彼のドラマにかなりハマっていたのを思い出した。

 

彼の泣きの演技に魅了され、どんどんファンになり(結婚したい♡)と思っていたことも思い出した。

 

渡部篤郎氏は「ストーカー」というドラマでも熱演していた。現実に現れた渡部篤郎似の男性もストーカーのようになってから、そんなことを思い出したら、急に笑えてきた。

 

ただ、年始早々そんなことがあってからというもの、男性と一緒にいる際のデメリットにしか目がいかなくった。

 

例えば夫が「お腹空いた〜」と言うところを想像してみよう。

 

「ご飯つくってほしいの?でも、私お腹空いてないからそれってモラハラ?」とさらっと冗談を言う。

 

すると、夫は恐怖におののきながらもこんなブログを書くに違いない。

 

タイトルは「お腹空いたと言ったら嫁にモラハラ認定された件」

 

例えば夫が「部屋、掃除した方が良くない?」と指摘する場合はどうだろう。

 

私基準では全然汚くないため「お掃除マシーン買ってくれたのはありがたいけど、ボタン押すだけでしょ?もしかしてパワハラ?」と笑顔で言う。

 

驚きのあまり、夫は開いた口がふさがらないままブログを書かざるを得ない気分になった。

 

タイトルは「嫁がルンバすら使おうとしない件」

 

例えば夫が「ねぇ〜」と甘えてベタベタしてきたところを思い浮かべる。

 

ちょっと気分的に暑苦しく感じた私はさらっと「それってセクハラやん?お小遣いあげるから美女と遊んでおいで〜」と送り出すとしよう。

 

夫は目を見開いて、絶句しながらブログを更新するだろう。

 

タイトルは「ウチの嫁が異次元すぎる件」

 

結局、私が結婚しても毎日ハラスメントだらけで、夫にたくさんのブログネタを提供するだけに終わりそうな予感がしてきた。

 

恐ろしい、やっぱりこのまま、ずっと独身でいたい。

どうやったら自死を防げるのか

10年以上前に弟を自死で失って以来、私は毎日のように「どうやったら自死を防げるのか」を考え続けている。

 

正直、トラウマが強過ぎて、自死に向き合うのにものすごく時間がかかり、とてもではないが「自死を防ぐ」まで到達できていない気がする。

 

それでも私は考え続ける。

 

最近、アメリカの超人気ブロガーが、富士山の青木ヶ原の樹海に潜入し、偶然見つけた遺体をブログの動画にあげたことが問題視された。

 

特に議論されたのは彼がその遺体を見ながら冗談を言ったということについてであった。

 

ただそれはストレスに直面した際,能動的に対処した結果だとも語っていた。

 

その動画は元のサイトからは削除されていたが、別で保存されていたため、私は勇気を出して全てを観ることにした。

 

そこにはぬいぐるみの帽子を被った若いアメリカ人男性が、意気揚々と青木ヶ原に入って行く様子が撮られていた。

 

そして林の中には首を吊った男性が顔にモザイクをかけられた状態でしっかり映し出されていた。

 

ポケットにはお財布と思しきものなどが入っており、その1メートルぐらい離れたところにはカバンが置いてあった。

 

ただ眠っているだけと言われてもおかしくないくらい普通に見えた。

 

ブロガー達が警察を呼んだので救急車が到着した。

 

遺体の顔ははっきり見えないけれど、ファッションや持ち物から私よりはるかに年下なのではないかという印象を持った。

 

書きながら思い出しただけでも泣けてくる。

 

彼が自死した理由はわからない。ただ遺族のことを思うととても辛く悲しくなった。

 

日本では最近、30-40代の男性の自死がもっとも多いらしい。

 

氷河期しか経験せず、成功体験もない中、努力すれば報われた世代に結果を求められても、引っ張り出す引き出しがなく追い詰められるのだろう。

 

敗者復活がなかなか許されない日本において、自分ももし同じ状況にいたとしたら。気持ちはよくわかる。

 

自死は精神的に弱い人がするものだ、という意見もある。ただ私はそれだけが理由だとは思わない。

 

人間生きている以上、嬉しい時もあれば悲しい時もある。感受性が豊かということが時には良くも悪くも作用するということなのだと思うのだ。

 

フェイスブックで何気なく目にした動画はそれを裏付けるものだった。

 

駅のプラットホームに設置された防犯カメラにはスーツ姿の男性がはっきり映し出されている。

 

彼はカバンを壁に投げつけた後、携帯電話も床に投げつけ、とうとうしゃがみこんでしまった。

 

たまたまそこをバギーを押すご夫婦が通り過ぎた。

 

異変を感じたお母さんは男性が気になり、赤ちゃんをお父さんに見てもらって引き返した。

 

次の瞬間、男性が高速で通り過ぎようとする列車の前に飛び込もうとしたところ、お母さんは男性をつかまえプラットホームに引き戻した。

 

まさに間一髪、母強し!自分の危険を全く省みない行動に心を打たれた。

 

男性の半分くらいのほっそりとした女性のどこからあんな勇気と力が湧いてくるのだろう。

 

英語で特に教会ではよくBe the right person at the right time at the right placeという表現を耳にする。

 

意訳するとふさわしいタイミングと場所に置かれるふさわしい人になりなさい、ということで私もずっとそれを念頭に置いている。

 

まさにこのお母さんはそれを体現しており、大きな希望を感じた。

 

感動して涙が出て、何度も何度も繰り返し動画を観てしまった。

 

彼が電車に飛び込もうとした理由はわからない。ただその動作から怒り心頭し、絶望的なのはいやがおうにも伝わってくる。

 

脳科学の見地から怒りは6秒我慢すればおさまるのだという。

 

実際カッとなって人殺しをしてしまった人は、刑務所の中ではもっとも安全な人達の部類に入るらしい。

 

怒りからの自死、いや、あえて自殺という表現に置き換えた場合、6秒我慢すればおさまると解釈できるのではないか。

 

生きていれば必ず良いこともある。

 

感情をコントロールすることを学ぶことで、一人でも多くの方が生き続ける選択をし、何度でも立ち上がっては強くなる道を歩んでいくよう願ってやまない。

 

 

 

 

 

アジアで英語が飛躍的に話せるようになるためのたった1つの心得

世界的に見てもアジアの成長は著しい。特にシンガポールにいるとそれを肌で感じる。

 

シンガポールは特に治安や税制面で優遇されているため、名だたる大企業がアジア統括事務所を設立している。

 

先日もアジア太平洋地域のミーティングに同時通訳者として参加させて頂く貴重な機会を頂いた。

 

参加者は10ヶ国から参加しているが共通言語は英語である。

 

ただ一口に英語と言ってもこの地域で話されている英語には独特な特長がある。

 

この10ヶ国の参加者もオーストラリアやニュージーランドを除いて英語を第二外国語として話しているのだ。

 

シンガポールは中華系、マレー系、インド系という人種で構成されており、家族とは福建語、広東語、マレー語、ヒンズー語で話していることが多い。

 

よって、英語を第二外国語として話す場合、英語を母国語として話している方達とは異なるコミュニケーション方法が必要となる。

 

これさえ体得すればアジアにおいて英語力は飛躍的に伸びる。

 

それはずばり「空気を読まないこと」である。

 

コミュニケーション図る際に空気を読んでしまったが最後、欲しい答えにたどり着けないこともある。

 

日本ではわざわざ知っていることを口に出すのは冗長だと思われる。

 

そもそも同じことが当たり前の国なので、わかっていることはとばす。

 

しかし、海外で同じ方法でコミュニケーションをするとなかなかうまくいかない。

 

なぜかというと「これは当然わかっているはず」と思われることが実際にはわかられていないことがほとんどだからだ。

 

わかりやすい例を挙げよう。

 

先日、ミャンマーのホテルで朝食のビュッフェを頂いていた。

 

前日の様子からランチは単品で注文する雰囲気だったのでミャンマー人のスタッフに英語で質問した。

 

「ランチは何時からですか?」

 

「10:30までです。」

 

意表を突かれるが、私の質問の仕方がまずかったなと即座に反省した。

 

正直、私の質問は間違っていないし明白だ。

 

ただ自分が欲しい回答が得られない場合、自分のコミュニケーション方法を改善するしかない。

 

代わりに私はこう話した。

 

「この朝食ビュッフェは10:30に終わりますね?」

 

「はい」

 

「その後、ランチの単品は何時から頼めますか?」

 

「12:00からです。」

 

「ありがとう。」

 

という流れで話は終わった。

 

第二外国語として英語を話している以上、英語力にはバラツキがある。

 

だから、まず私が質問したい内容について、日本だったら「空気」と扱われ、わざわざ口にしないことも敢えて口にするのだ。

 

毎日わかりきっているルーチン作業を指差し確認するような感覚に近いかもしれない。

 

そこでまず最初に「共通理解」という土台を作る。

 

それはお互いの中に「安心感」を生みだす効果もある。

 

日本人同士でも初対面の場合、セミナーでは「共通点探し」から始めたりする。

 

この「空気の言語化」はそれを最速最短で行なっているようなものだ。

 

空気は言語化するまで全く異なるものだというぐらいに思っている方が良いだろう。

 

どれくらい違うかというと食文化ぐらい違うのではないか。

 

お刺身を見ると日本人は「おいしい♡」という人が大半で、海外でもファンが増えているものの「お腹壊すから絶対に無理」という人も大勢いる。

 

シンガポールでも、中華系はビーフを避ける人が多く、マレー系はポークがダメで、インド系はベジタリアンという具合に様々だ。

 

英語をそれなりに勉強していた私は、当地に来たばかりの頃は(なんで私の英語は伝わらないの?)と悩ましいことも多かった。

 

でも今となっては、どんどん質問をしてその空気の違いを知っていくのが楽しくて仕方がない。