「婚活」より「終活」にモチベーションがわく理由

最近、いつの間にか「婚活」をすっ飛ばして「終活」についておおいに熱く語っていたら家族に本気で心配された。

 

脳は「〜ない」を深く認識しないそうだ。だから「心配させてはいけない」と思うばかりにかえって「心配」を引き寄せた典型的な事例である。

 

なぜ「婚活」より「終活」なのか。それは単純に「人様に迷惑をかける」のがイヤだからだ。

 

「終活」のためには貯金をしたい。そしてその為には多少ときめくデザートやステキなお洋服を買うのもガマンできる。

 

それに対して「婚活」はどうだろう。正直なところ、全くもって貯金したいとは思えない。

 

そこで自分に自分でコーチングをした結果、恐るべき事実がわかった。

 

それは深層心理において無意識のうちに「結婚」はまさに「夫や子供に迷惑をかける行為」としてインプットされていたということだった。

 

具体的な事例としてふと思い浮かんだのは日常のこんな場面。

 

ご主人が「腹減った」と言ったとする。マイペースな私のことだ。きっと「私はまだお腹空いていない」と正直なコメントをするだろう。

 

これをうっかり子供に言ってしまったらどうなるだろう。餓死してしまう可能性が出てきた。

 

一事が万事、やはり考えれば考えるほどどこからどう考えても私は結婚に向いていない気がしてくる。

 

私の婚活推奨アドバイザーが「そんなに早く諦めたらあきませんヨー, Yumi-san !!!」とコメントをくれる。

 

なるほど、そう言って下さる気持ちはよくわかる。それにそんな気持ちにできる限り応えたいという気持ちもなくはない。

 

それと同時にどうしようもないほどの違和感が湧き上がってくるのを止められない。

 

そもそも私は「婚活」を諦めようとしているのだろうか。

 

「諦めようとしているもの」を見つめるうちに「どうしても諦められないもの」が浮き彫りになった。

 

そうなのだ、私が諦められないのは間違いなく「自由」なのだ。

 

「自由」に魂を売り飛ばし「自由」と結婚したのだ、と考えるとものすごく腑に落ちた。

 

だから「自由の真逆」にあると思える「婚活」を飛び越えて「終活」に熱くなってしまうのだ。

 

誰かと一緒になることで時間や空間に限らず、今以上にもっと「自由」になれるなら「婚活」もありなのだろうか。

 

もうこうなったら同じように「終活」に熱くなる男性と結婚するしかない。

 

アトピー性皮膚炎が治ったたった3つの方法

おかげさまでブログが10,000PVを達成した。そこで感謝の意を表して、最近起きたできごとを中心にたまには人様の役に立つことを書こうと思う。

 

私は小さい頃からアトピー性皮膚炎に悩まされていた。赤ちゃんの頃は本当に赤く皮膚がただれて耳もとれてしまうのではないかというほどで、母はそんな私を見るのがとても辛かったそうだ。

 

小学生の頃は肘の内側がかゆく、赤い発疹がいつも見受けられた。膝の内側も同じだった。

 

大人になってからもいろいろな場所に発疹ができた。主に衣服や靴などを皮膚と接触する頻度の高い場所に症状が現れることがわかった。

 

一度でもかいてしまうと、ますます痒みが増すように感じられる。すると無意識のうちにかくことが習慣化してしまうので悪循環が生まれる。

 

厄介なのは寝ている時にもかいてしまうということだ。

 

他にもアレルギーの原因となることがたくさんあった。 猫の毛やウサギの尿に含まれるタンパク質などだった。

 

ただその場合は猫やウサギから離れればいいと言う対策があるので防ぎやすい。それに反してアトピー性皮膚炎に関しては、ダニ、ほこりなど見えない敵との戦いのようでなかなか防ぎにくく感じていた。

 

ところが最近、ふとある理由が原因でアトピー性皮膚炎がなくなった。それは引っ越しを機に起こった。

 

引っ越し先は、直前まで住んでいた人がいたにも関わらず、エアコンをつけるとカビ臭かったためクリーニングサービスの予約を試みた。

 

ただなかなか都合が合わなかったため、待っている間、あえてエアコンを使わずに過ごした。

 

窓を開けて過ごす日々が続き、最初は外の音が気になっていたけれど徐々に慣れるようになった。

 

そして気がつけばいつの間にかアトピー性皮膚炎がなくなっていたのである。あれほど長く悩まされていたので、最初は半信半疑だった。

 

私が具体的にしていた行動と言うのは以下の通り。

 

1. かゆみのあるところに薬局で薬剤師さんに勧められたぬり薬を塗る

 

2. かゆみが出たときには薬局で購入した抗ヒスタミン薬の錠剤を飲む

 

3. エアコンの代わりに窓を開けたり扇風機を使う

 

1と2は比較的前から続けてきたが、3をするようにしてからと言うもの状況がガラッと変わった。

 

実は長い間アレルギーの原因はミルクではないかと疑っていたため、しばらくミルクティー断ちも行っていたのだ。

 

ところが、エアコンを止めてから大好きだったミルクティーを再び飲むようになっても、アトピー性皮膚炎は出なくなった。

 

そうこうしているうちにぬり薬も抗ヒスタミン薬ももうほとんど必要なくなってしまった。

 

もちろん、エアコンを使わなくなったので多少汗をかく機会も増え、以前にも増してシャワーを浴びる頻度が増えたということも関係してるかもしれない。

 

そして薬を使わないと言う状況を実現できるのは1人で部屋にいる時だけなので、普段外出先でエアコンの環境の中に身をおくことがほとんどだ。

 

これはあくまで私の想像なのだが、通常家に帰ってほっとした時に、かゆみが増すパターンを繰り返していたので、その時にエアコンがない状況が自分の体には合っているのかもしれないとふりかえる。

 

何気なく書いている事だけれども、何十年と生きてきてずっと悩まされてきたことだけに、自分にとっては非常に画期的なことだ。

 

海外で通用する日本語の1つに「カイゼン」という言葉がある。私も例にもれず改善マニアなのでやっとここに行き着いた感があり、この経験が誰かの役に立つことを願ってやまない。

「安楽死」は「自殺」なのかと言う問いについて

「テルマ&ルイーズ」「今を生きる」「愛を読むひと」この映画に共通するのは、登場人物が自ら死を選ぶと言う点だ。

 

ネタバレになるので詳細には触れないが「自殺」というのが自分にとっては強烈に心に残っている。

 

もっと言うと2004年に自分の弟が自殺してしまったからは余計にずっと自殺について考え続けている。

 

基本的に日々考えることはといえば、どうしたら自殺を防げるだろうかということだ。

 

にもかかわらず最近自分が認知症になったら安楽死を選びたいと思うようになった。

 

「安楽死」は「自殺」なのか。はっきりいって同じなのか違うのかわからない。でもそれを選ぶ動機が何なのかという点に重きをおかれるのは重要だと思う。

 

橋田寿賀子氏が91才の時に認知症になったらスイスで安楽死をしたいと話された記事を読んだ。「渡る世間は鬼ばかり」で有名な脚本家だ。

 

スイスで唯一外国人の安楽死を受け入れている施設があり700,000円で願いを叶えてくれるので、認知症の気配が見えたら早急に飛ぶそうだ。

 

なぜ終活について考えるようになったかと言うときっかけは2つある。

 

最近50代の方とお話しするとご両親の介護の話について語ってくださる機会が多い。

 

友人宅を訪れるとおいしい手料理を振る舞ってくださっていたお母様が、最近では認知症になりオムツを履かせた途端に手を入れて排泄物を顔に塗ってしまうんだという。

 

もう一つは孤独死の場合。ご自宅でなくなると発見が遅れ、腐敗臭に近所の方が気づいて発見されるそうだ。

 

腐敗臭が進んだご遺体は寝袋のようなファスナーのついた黒い袋に入れられる。ご対面するのが難しいからだ。

 

なるほど、色々と考えさせられる。それぞれにいろんな事情がある。

 

ただ、自分ごととして考えた時に、1つ言えるのは誰にも迷惑をかけたくない、この願いだけは絶対に叶えたい、ということだった。

 

そう考えると自分で自分のことをコントロールできるうちに自分の死に方を決めると言うのは非常に前向きなことだと感じられるようになった。

 

もちろん、だからこそ独身の私の場合、婚活をして老後仲良く暮らせるパートナーを見つけましょう、という発想もよくわかる。

 

ただし、橋田寿賀子氏の場合はご主人に先立たれお子様がいないのでお一人になった。

 

では婚活の次は妊活を、となるかもしれないけれどお子さんがいても将来的に実家に1人きりになるということ事は容易に考えられる。

 

シンガポールでは身寄りがなく身元がわからないお年寄りの場合、介護施設から葬儀場に連絡があり、その日、または翌日に火葬される。

 

火葬費用は葬儀場が負担する。そういう葬儀場を支援する意味でお金持ちの方が積極的にそのような葬儀場を利用すると言う循環が生まれているそうだ。

 

生まれてくる時は自分の意思と関係ないのだから亡くなる時も人に迷惑をかけてもいいという意見も耳にする。

 

ただ、これほどまでに人間の意思で長生きできるようになったのであれば、同じように人間の、自らの意思で安楽死することがそんなに責め立てられることではないのではないかと感じるのは私だけでは無いはずだ。

 

課題先進国の日本がスイスのように安楽死の場を提供できないとすれば、安楽死がスイスに行ける金銭的に余裕のある人達だけの選択肢になってしまうのではないかと危惧してしまった。

 

犬も死期が近づくと死に場所を求めて姿を消すと言う。死に場所を決めること、これはひょっとするとそれは本能的に動物に備わっている能力なのかもしれない。

占い師になったら2年連続で行列ができた

ものごころがついてからというもの無性に星占いに心が奪われた。単なる占いというより西洋占星術という学問のような感覚も否めない。

 

とはいえ星座は12種類。だんだんそれには飽きたらず「占い」と呼ばれるものは何から何まで片っ端から取り組むようになった。

 

中でもタロットカードはおもしろかった。大アルカナと呼ばれるものでも22枚。逆さまになったカードも占えるのでさらにその倍はある。

 

そしてカードのスプレッド方法も多岐にわたるので掛け算すると途方もない数のパターンが繰り広げられる。

 

しかも独学でコソ練ができ、自分に関して言えば占いの結果で仮説検証サイクルが成り立つ。「タロットは自分を占えない」という諸説もあるが、それはさておき、お友達などを占ううちに当たると評判になった。

 

そこでせっかくなので、趣味と実益、さらに思い出作りを兼ねて年に一度行われる学祭で出店することにした。

 

仲良しのお友達と役割分担をし、1人はフリーマーケット、もう1人は手相占い、私はタロットカードを担当した。

 

神戸女学院大学で行われる学祭は「岡田山祭」と呼ばれる。それは学校が岡田山にあるからである。

 

そこで「新宿の母」になぞらえて私は自分自身を「岡田山の母」と命名した。「貫禄ある母役」を演出するため、ショートヘアにパーマ、メガネをかけた。

 

当然、それだけではもの足りない。関西のオバちゃんの代名詞といえばヒョウ柄。母のワードローブから、黒地にちょっとかわいらしめのヒョウがたくさん描かれた服を借りた。

 

もともとランドセルを背負っているのにクレジットカードの申込書を配られるくらい老け顔だった私は「本当に学生ですか?!」と驚かれた。

 

長年の悩みであった「老け顔」でようやく人さまのお役に立てる機会を持てるようになったことを心底嬉しく思いながら、数々のお客様の占いをこなしていった。

 

近隣の大学から来られる方も多く、2年連続して来てくださるリピーターまで現れた。「他に行く所、無いし」とぶっきらぼうに言う男子学生にさえも感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

学祭で2年連続行った催しは長蛇の列をなし、無事、成功裏に終わった。すごく達成感があったので、バイト先やダイビング仲間との集まりなどありとあらゆる場所にタロットカードを持ち込んで占いまくった。

 

ところが今となってはどうだろう。そんなにハマったタロットカードなのに、一切手を付けていない。どころか、私はタロットカードをオススメしない。

 

占いは遊びとしてはおもしろい。でもある時、タロットカードによる弊害も目の当たりにしてしまったのだ。

 

気を付けなくてはいけないのは、タロットカードには「悪魔」や「死神」が入っている、という点だ。

 

タロットカードにハマり、自分を占ううちにひたすら連続で「悪魔」や「死神」を正位置でひくようになってしまう。

 

占う前にタロットカードをしっかりシャッフルするので、毎回、違うカードが選ばれるはずなのに、なぜなのか。

 

「そこがタロットカードの不思議さであり、おもしろさ、醍醐味なのよ〜」と割り切れれば良いのだろう。でも、自分がネガティブな感情で落ち込んでいる時はどうだろう。

 

自分は「悪魔」や「死神」に取り憑かれているのではないか。にわかには信じがたいが、そんな感覚に陥り、結果、統合失調症のように精神を病んでしまったケースも実際にあるのだ。

 

よく切れる包丁でおいしい料理をつくる人もいれば、人を殺める道具に使う人もいる。何事も受けとめ方や使い方次第ではある。

 

では、そもそも人を占う占い師さんご自身は幸せなのだろうか。幸せな人もさほど幸せでない人も両方いるだろう。長年、観察してきて気付いたことがある。

 

それは「占いの結果」によって、占った人を「自由にするのか」それとも「制約を与えているのか」の違いだということだ。

 

今、目の前には数少ない選択肢しか見えない。それぐらい周りに追い詰められて、囚われて心が苦しくなる時がある。

 

そんな時に、ちょっと離れて視野を広げ、思ったより選択肢は多いなぁ、と心がラクになった時、人は内なる無限の可能性を引き出すことができるのでは無いだろうか。

 

困っている人に「占いの結果」で制約を与えてしまう人がいるとすれば、それは罪以外の何物でもない。

 

本来、私達の未来はまっさらな白紙。自分の道はいつだって自分自身でつくりあげられることを忘れてはいけない。

ブログを書く8つのメリット (1)

ブログを書けば書くほど、書き始めて本当に良かったと思う。良いことはみんなに広めたいので以下にメリットを並べる。

 

(1) 世界中に読者ができる
以前、多国籍企業に勤めていて嬉しかったのは、やはり世界中の情報が頻繁に入ってきたことだった。

 

自分が担当しているアジア太平洋地域以外については上司から耳にする程度だったが、それでもそんな生の情報に触れて遠くの国を近くに感じられてワクワクした。

 

現在の私は会社に属しながらもプロジェクト毎に個人でお仕事をする機会が増えたので、そんな「つながり」を意識する機会は極めて少ない。

 

それでも私のブログに過去30日間の間にアクセスした読者の国を見て驚いた。なんと15ヶ国にも及んでいるではないか。

 

アクセス数順に見るとざっとこんな感じ。

 

日本、シンガポール、アメリカ、タイ、ベトナム、香港、インドネシア、ミャンマー、オーストラリア、スペイン、マレーシア、中国、フランス、モルジブ、台湾

 

我ながらこれはなかなかすごいと思う。これもひとえにフェイスブックのおかげだと思うし、たまたま私のブログの読者が「旅好き」なだけかもしれない。

 

それでも、私のような個人にもこんな「つながり」を世界中に構築できてしまうなんて、考えるだけで本当に感慨深いのだ。

 

(2) リアルタイムで読者数がわかる
グーグル解析を使うと、「今、この瞬間」のリアルタイムで私のブログを読んでくれている読者数が表示される。

 

そこでわかる情報は人数とその読者がブログにアクセスしている国だ。地図上の一部に丸が表れるので一瞬、震源地情報かと見紛うが、そうではなく貴重な読者様の現在地情報なのだ。

 

今、この瞬間に私のブログを読んでいる人がいる。そう思うとこれを見る度、私の胸は激しくキュンキュンする。

 

最近流行りのエムグラム診断によると、私は「超寂しがり屋」らしい。絶対に認めまいと意地を張っていたけれど、最近ではちょっと自分でも認めざるを得ないかなぁと感じてきた。

 

特に夜中などに「現在3人のアクティブユーザーがサイトを訪問しています」などと表示されるやいなや「私、今1人じゃない♡」と嬉しくなることからもそれは激しく明白だろう。

 

自分のブログを書く、これが超高齢化が進む日本の孤独死を妨げる大きな武器になるかもしれない、と本気で思えてきた。

 

ここまで書いたらお腹が空いたので続きはまた今度。

「引き寄せの女王」と呼ばれて パート4

生前、坂口良子さんのファンだった私は、最近の一連の出来事を通じて密かに胸を痛めていた。「彼女は今頃、天国で泣いていらっしゃるのだろうか」と悲痛な気持ちになりお友達に思いの丈をぶつけていた。

 

そんなことを漠然と考えていたら、程なくして天国の母が夢の中にリアルに現れた。私の隣に座る母は私を見つめながら号泣していた。

 

なんのことはない、天国の母を泣かせているのは紛れもなく私だった。芸能ニュースにうつつを抜かしている暇などない。目の前の自分がやるべきことをきちんとやるようにという警告のようだった。

 

思い返えせば、私は母の望み通りに生きるよう努力をしてきたつもりだった。そのせいだろうか、私は試験運がやたら良かった。

 

受験をしたのは人生において2回。私学の小学校受験と大学受験だった。そしてどちらもありえない偶然のおかげで合格した。

 

美智子様に憧れた母は私を東京の聖心女子大学に入れたかったようだ。だから推薦でエスカレート式に入れるよう小学校を受験させた。

 

テストを終えて帰ってきた私に母は、どんな内容だったかを訊いた。そして合格を確信したようだ。

 

それは試験が「いやいやえん」という本から出題されたからだ。私は試験の半年も前から毎日のように「いやいやえん」を読んでいたので当時丸暗記していた。

 

でも私は、合格したのは聖心の創立者の聖マグダレナ・ソフィア・バラと同じ誕生日からではないかと密かに信じている。だから将来は教育に関わることをするのが使命なのかもとそれ以来ずっと思い続けているのだ。

 

高校生になると大学ぐらいはせめて共学に行っておかないと社会的にうまく立ち回れなくなるのではないかと焦りだした。

 

なにせ「英語で論破するのが夢」という志を持っていた私は自分がガールであることを忘れ「Boys, be ambitius」という言葉に胸の高鳴りを抑えられずにいた。

 

やはりサムライ・スピリットを発揮すべく、ここは潔く「推薦という選択肢は無くさなければならない」と強く誓った。

 

いずれにせよ、学校の成績より受験勉強を優先させ始めたので推薦は難しくなることを予測していた。そこで、母にも推薦ではなく受験にフォーカスすると伝えた。

 

せっかく小学校から小林聖心に行かせたのに、その意味が無くなってしまったことを母は大いに落胆した。それならばどうしても神戸女学院大学に入って欲しいと懇願された。

 

当時住んでいた場所から近かった神戸女学院大学はなかなか敷居が高かった。中学校から入学された方は東大や京大に進学される方も多い。しかも名前の通り女子校なのでいろんな意味でためらいがあった。

 

でも学校にある受験生のための部屋になぜか神戸女学院大学の願書が置いてあったので、これもご縁だと思って受けることにした。

 

地元に残りたい気持ちを優先させて近くの大学に合格した先輩に相談に乗ってもらったところ、過去に使っていた10冊近く参考書を全部譲って下さった。

 

英語、世界史、現代文など多岐にわたるが、そのうち古文の参考書がやけに目を引いたので、真剣に向き合った。と言っても、最初の1問は舐めるように解き、丸暗記するほどだったが後の10数問は全く手をつけずにほったらかしだった。

 

すると!なぜかこの古文の問題が試験に出たおかげで合格したのだ。これぞ引き寄せ、今、振り返っても全くもって不思議としか言いようがない。

 

私は生まれ持って幸運の星の元に生まれてきたのだろうか。正直、今までそうやって調子に乗っていたところも否定できない。でも今振り返るとやはり母の私への愛がそうさせたとしか思えないのだ。

 

私は母から本当に愛されていたと思う。母が生きていた頃はなかなか100%はそう思えなかった。自分が思いつく方法で親孝行はしてきたつもりではいたが、やり残したことの方が圧倒的に多い。

 

幸い、今、健康な私はまだできることがたくさんある。まだ遅くはない、今度こそ夢に満面の笑顔の母が出てくるよう、少しでも母が喜ぶような生き方をしたい。

 

「なぜ女性は愛するより愛される方が良いのか」という問いについて

昔から女性は愛するより愛される方が良いと言われる。そう言われてみるとなんとなくそんな気はする。

 

でも私は追いかける恋愛の方が良いとずーっと信じてきた。自分が好きな人を追いかけて振り向かれたい、そういう思いにとりつかれていた。

 

ただ最近、年を重ねたせいだろうか。いろんな面で考え方がずいぶん大きく変わってきた。180度ぐらい変わったこともあり、その内の一つが上述の件である。

 

それは自分が婚活を真剣に始めたことがきっかけだった。同じマインドセットでマンネリ化したパターンでうまくいかない場合、あえて真逆のアプローチをするのが良いと思えたからだ。

 

今まで「追いかける」ばかりだったのを「追いかけられる」ことも完全にシャットアウトするのではなく受け入れてみようと思った。

 

それをきっかけにこの真逆の両者を比較するようになった。

 

「あなたが追いかける、あなたが大好きな人」は恐らく「あなたを追いかけてくる、あなたを大好きな人」よりもあなたのことをいたって冷静に観察してくるのに気がつくだろう。

 

例えばバレンタインデーに手作りのチョコレートをあげるとする。「あなたが大好きな人」は「あぁ、あれ?犬にやった」と素っ気ないかもしれない。

 

でも「あなたを大好きな人」は「一ヶ月かけて食べたよ♡」と愛おしすぎることを言ってくれるだろう。

 

例えば胸の大きさについて。「私の胸そんなに大きくないし」と言ったとすると「あなたが大好きな人」は「いや、まあそうでもないんじゃない?」と無難な回答をするだろう。

 

でも「あなたを大好きな人」は「余裕でDかEはあるでしょ♡」とフォローしてくれる。昔から「あばたもえくぼ」とはよく言ったものだなぁと感心する。

 

「あなたが大好きな人」はあなたと一緒にいる時に、(顔のほくろをつなげるとオリオン座ができるし、腕にはさそり座まである)、なんて内心おもしろがっている可能性がある。

 

そんな時「あなたを大好きな人」は(全身から金粉出ていて眩しすぎ♡)と瞳にハートマークを浮かべてくれているに違いない。

 

これは5段階評価に例えると、3のあなたを「あなたが大好きな人」は1-2の評価をくれるに過ぎないのに対して「あなたを大好きな人」は4-5の評価をくれている感覚だ。

 

だから追いかけ続けるのは結構大変だ。1-2の過小評価されたところからのスタートだから、相当努力しないといけない。

 

しかもそんな努力をしている間に「あなたが大好きな人」の目の前には、特に努力もせずありのままでいながら、彼が4-5の評価を下す女性が現れて、大好きな彼をかっさらっていくかもしれないのだ。

 

昔から選択肢が2つ以上あったらツライ方を選ぶのが成長する唯一の方法だと思っていた。でも恋愛に関しては、もっとラクをしてもいいのかもしれないとつくづく思う。

 

今日も結婚している方々にインタビューをしたら、みんな口を揃えて「一緒にいるとラクだから」と言っていたのを思い出す。

 

ありのままでも美化されるようにお互いがステキに見えるから無理をしないのだろう。それが良縁を見極めるヒントなのかもしれない。