「褒める」「褒められる」の弊害

大人になればなるほど褒められる機会というのは減る。にも関わらず、ネガティヴなことを1回言われたとしたら、それを取り返すのにはポジティブなことを11回言われないといけないらしい。

 

そんなことを聴くとポジティブなことを言うのは良いことだと思いがちだ。実際にお互いにポジティブな言葉がけをして良い心の状態を保つことは絶好のコンディションを保つ上で役に立つ。

 

仮にポジティブに褒められた時をプラス100としよう。「こんなに褒められたんだから会社にとってもクライアントにとっても貢献度は高いはず!」と意気揚々と心弾むハイな日々を送るとする。

 

ただ、現実的に、普通に生きていてそんなにいつもいつも褒められることは無いだろう。環境がどんどん変わって新しいことを学び続けなければいけない中、むしろ改善点を指摘されることの方が圧倒的に多いのが世の常だ。

 

なのでネガティヴなフィードバックをもらった時をマイナス100と例える。「事実とはいえ心にグサッとくるし、一度こんな風に言われたら評判を取り戻すのは難しいだろう。もうダメ、オワッタ、シンダホウガマシ」と悲しい気持ちがエコーし、落ち込むことだろう。

 

前述のネガティヴ1件に対してポジティブ11件で相殺する説が正しいならば、褒められることの方が圧倒的に少ない人生では、普通に生きているだけでネガティヴキャンペーンを生きることが確定してしまうのだ。

 

なんと恐ろしいことだろう。こんな恐るべし地球に子供を生んで育てるなんて考えただけでもおぞましい、自分が生きているだけで精一杯だわ、と思うのもムリは無いと思えてしまう。

 

それでも私は生きている方が良いと思う。私もうまくいかない時の方が圧倒的に多いし、最近では信頼していた方に「自分の能力と努力が足りないと認めたらどうですか」と言われる始末だ。現場のフィードバックをそのまま伝えていたら、全てが私の「言い訳」に聴こえたらしい。

 

その方に褒められたい一心で頑張り続けていた私もさすがにショックを受けた。相変わらず最初の反応は「うわぁ、もう死んだも同然」だった。もう私など生きる価値など無いのではないか。

 

ただ、あまりにも落ち込む回数が多く、その度に毎回「死んだほうがマシ」と思い過ぎているせいだろうか。「とはいえそんな簡単に死なないし、むしろ長生きしよう!」とおきあがりこぼしのごとく前向きに思えるたくましい自分がいることに気が付いた。

 

落ち込んだ時にはたくさん寝る。そしてコーヒーを飲んでチョコレートを食べれば幸せになれる。そうしてフンフンと気分良く生きていると、タイミング良くアメリカ人の元上司から連絡が入った。シンガポールでアライアンスになって業務拡大のお手伝いをして欲しいという依頼だった。

 

人生、良いこともあれば悪いこともある。誰かに褒められることを頼りにしなくても、自分が気分良く生きていくための知恵さえあれば良しとしよう。

心と体に効く瞑想 <第六回> 〜純粋な慈愛〜

初めてミャンマーへ行ったのはもう10数年以上も前。中国人女性の友人と一緒にバックパッカーの旅に出た。仏教三大遺跡の一つ、バガンにある寺院を見て廻る為だ。

 

今でも忘れられないのはミャンマー人のふとした思いやりに満ちた行動だ。ランチでホーカーに立ち寄って私が暑さのあまり自分を手で扇ぐとスタッフがサッとうちわを手渡してくれる。蚊にかまれてかゆそうな仕草をすると即座に蚊取り線香を足元に置いてくれるのだ。

 

街中でバスに乗ろうとしていた時には流暢な日本語で話しかけられた。日系企業に勤めるという若いミャンマー人男性は、私達の行き先を確認するとバスの運転手に行き先を説明してくれた。その後笑顔で爽やかにその場を立ち去った。

 

そんなことからミャンマーの第一印象はすこぶる良い。加えて、ヴィパッサナー瞑想を学べるセンターも世界各地にあるけれど、ミャンマー人に紹介され発祥の地でもあるミャンマーで体験することにした。

 

この瞑想を通じて私達は何を得ようとしているのか。目的を端的に述べると、自分の心を見つめ、コントロールすることを学び、ネガティヴな感情といった不純物を取り除いて浄化するということだ。

 

座って瞑想をする時、廊下を挟んで真横にある貯水池では200羽を超える水鳥達が賑やかに鳴き声をあげている。本来なら瞑想に集中できればそんな音さえも集中力を増すのを助けるのだろう。たださすがに多過ぎた。

 

私はとうとうトイレットペーパーを丸めて細長くし、真ん中で2つにカットしたものを左右の耳に詰めた。髪の毛を束ねていたので歩道に映った自分の影を見ると一瞬髪留めのように見える。でも実際は耳から出ていると思うと我ながらウケた。

 

簡易の耳栓だったが、無いよりはずっとマシだった。座って瞑想する時だけでなく歩く時も食事中も耳栓をつけた状態でどんな変化が見受けられるか実験した。

 

やはり格段に集中力があがったし味や匂いにも繊細になった。10年前、五感を鍛えていっとき繊細になり過ぎた時があって、つい反応してしまって面倒なので鈍感でいる方がラクに感じていた時もあったが、今回は繊細になっても大丈夫という安心感があった。やはり「何のためにやっているのか」という理由は重要だ。

 

一緒に瞑想しているヨギ達は北米、欧州、アジア各国と世界中から集まっている。食事の時には担当の尼さんになんとなく席を指定される。新しいメンバーは空いているところに適当に座るからなんとなくという表現をしたのだが、レギュラーメンバーとはだいたい同じテーブルに座る。

 

いつも私の眼の前に座る女性は韓国の方だった。ひと言も言葉を交わさないのになぜわかるかというと、ウェットティッシューにハングル語が記載されていたからである。

 

中島美嘉によく似ている彼女はいつも目を閉じながら食事をする。一挙手一投足においてすっかりスローモーションが板についていて、しなやかで繊細な動きがとても美しい。

 

瞑想センターではカラダの線が現れるピタッとした洋服を着てはいけない。胸元も開いていてはいけないので鎖骨をカバーして、袖口も肘より下にくる白いシャツを着るのが原則だ。持参した緩めのTシャツはヨギ的にはNGだったので瞑想センターのオフィスでふさわしいブラウスを1枚4000ミャンマーチャット(約333円)で2枚購入した。

 

彼女の場合、華奢な二の腕の間には豊かな山脈が並んでいた。大きめのシャツを着ていても女性らしいラインがくっきりしていて女性の私もドキドキするほどだった。改めて自分のを確認すると豊か過ぎる二の腕の間にひっそりと丘が並んでいた。

 

思わず遠い目になりながら、かつて小学生の頃の私はゆっくりとお食事をしてとてもお上品だと褒められたのを思い出した。今となってはどうだろう。シンガポールの兵役訓練を受けている10代後半の男性と同じくらいの早食いスピードが認定されている。

 

今からでも遅くはない。これを機に彼女をロールモデルにしようと思った。彼女の動きをイメージしながら動いてみよう。そう思いながら食事を終えてテーブルを離れ食堂を立ち去ろうとした時、彼女はスッとオレンジ色の耳栓を私に差し出したのだ。

 

その後、彼女は何事も無かったかのように目を閉じて食事を続けた。私はその時ウルっときた。ヨギ達は五感と思考を鍛えて、いつでも周りの人に役立つ人間になろうとしているのだ。

 

言葉も交わしたことがなくお互いに名前だって知らない。でも困っている人がいたらそれに気付き、スッと手を差し伸べられる。そんな純粋な慈愛に満ちたヨギ達に囲まれて自分の「ありたいあり方」を日々問うきっかけを与えられた。

心と体に効く瞑想 <第五回> 〜殺生とは〜

ミャンマーの森の瞑想センターにある瞑想室は2階建て。傍には屋根のある廊下があり、その真横に貯水池がある。

 

座って瞑想をする時は大抵瞑想室で行う。歩いて瞑想をする時には室内で歩いても良いし、脇にある廊下や瞑想センター内を歩いても良いが、男女分かれているので男性の瞑想のお部屋や宿泊施設に行ってはいけない。

 

瞑想をしている私達はヨギと呼ばれる。瞑想そのものに宗教色は無いが、毎晩6時から故ウ・パンディタ・サヤドウ氏の録音された講話を英語の逐次通訳付きで聴くので、仏教の教えも学べる。

 

その中に「殺生を控える」というのがある。私はほぼベジタリアンなのでどちらかというと控えている方だと思っていたが、初日からこのテーマについて考えさせられた。

 

夕方以降は瞑想室の灯りを求めて蚊が入ってくるので日が暮れる頃に網戸を閉める。それでも出入りする時にスッと入ってくる蚊がいるので個別の蚊帳が用意されているのだ。

 

私も暗くなってから早速蚊帳を使ってみた。蚊よけスプレーをしているのでかまれる心配は無いもののネットに囲まれて生まれる自分だけの空間が集中力を促す役割まで果たしてくれることに気が付いた。

 

シーンと静かになって良い感じに瞑想モードに入る。すると「ブーン」とあろうことか耳元で蚊の鳴き声が聞こえるではないか。

 

(ありえない。。。)いつもの私なら「バチッ」と何のためらいもなく両手で殺していた。血が出てきた時にはこれ以上の犠牲者を出さずに済んだぐらいの正義感に満ち溢れていた。ところが尼さんに囲まれた私にそんな行動は許されない。

 

冷静かつ即座に蚊を追い出しにかかった。ところが蚊は蚊帳の上の方にどんどん逃げる。ちょっと待ってから蚊が下の方に来た瞬間に蚊帳の裾を持ち上げる。するとまた上の方に逃げるのだ。

 

個別の蚊帳はカーテンを引っ掛けるフックでワイヤーにぶら下げている。そしてこのワイヤーは瞑想をしているヨギ、全員分の蚊帳をひっかけているため、誰かが動くと振動が伝わる仕組みになっている。

 

これ以上動くと他のヨギの瞑想の妨げとなると感じた私は蚊帳の中で蚊とふたりっきりの時を過ごすこととなった。蚊を殺さずに済んだし、かまれなかっただけ幸いである。

 

これを機に以前にも増して「殺生を控える」というのを意識しだした途端、視点が変わりだした。ある時、目をつむりながら瞑想をしているヨギがうっかりアリを踏んでしまったのを目撃した。

 

(はっ!)として即死したアリを眺め続けた。周りにいる他のアリは自分の役割に必死で何事も無かったかのように歩き続けている。

 

そんな中、ある一匹のアリが即死したアリに気付き、パニックしたようにグルッと円を描くように何度か周ったかと思うと即死したアリを担ぎだしたのだ。

 

自分と同じサイズの即死したアリを担いで皆が歩くのとは別の方向に歩き出したアリ。同胞の遺体をどうするのだろうか。そんなことに想いを馳せた。

 

以前、お寺で僧侶に私が普段、ほとんど野菜しか食べないことを伝えると「野菜だって生きたい。人間は殺さずには生きられないのです。」と教えられたのを思い出した。

 

生きている以上、殺さずに生きることはできない。それをわかった上で小さな虫達すら「殺さない」と決めた。この決断で一番救われたのは自分自信だろう。心の中にやっと小さな平和が訪れた。

禁煙コーチングという親孝行

父はヘビースモーカーだった。どうやらタバコを片時も離せなかったらしい。1日に吸う量は2箱。家の壁は茶色っぽくなるし、カーテンを洗うと水は紅茶のように濁るほどだった。

 

(どうしてわざわざお金を出して煙を吸うのだろう。)、健康オタクの私には全く理解できないが、はたから見ていて禁煙って難しいんだろうなぁと感じていた。

 

しかし、母を末期癌で亡くしてから、父にはぜひ長生きして欲しいという想いが強くなった。

 

世界遺産が大好きな父と一緒に、私は母の代わりとなって一緒に旅行に行った。海外はフランス、イギリス、インド、カンボジア、マレーシア、シンガポール。国内は和歌山、東北地方など自然を堪能した。

 

日本の自然は本当に素晴らしい。空気もキレイだ。白神山地など美しい森や滝や川の透き通る水を見ているだけで心が洗われるようだった。

 

にも関わらず父は相変わらずタバコを吸っていた。澄み切った空気を深呼吸できて満喫できるまたとない機会なのになぜなのだろうか。

 

その時、私は父に禁煙コーチングをすることを固く誓った。自分が学んできたコーチングを活かして実際に禁煙に成功した事例はたくさんある。

 

決断すると即実行に移す。父には「せっかくこんなに空気がきれいなところに来ているんだからタバコを吸ったらもったいないよ。お食事中もタバコを吸うんだったら私は向こうで食べるね。」と席を移った。

 

なんという生意気な娘。ふたりで旅行しているのだから鬼としか言いようがない。私にも勇気が必要だった。そしてそれは私なりの確固たる決意を表明した瞬間だった。

 

旅行から帰ると当時まだ会社勤めをしていた父の勤務先に一番近い禁煙クリニックをネットで探して場所と住所を送りすぐ診察を受けるように促した。

 

「いつかは来ない、あるのは明日だけなので今すぐ予約して下さい。」という私の想いに父は答えるかのように翌日から通院を始めた。

 

まず最初に医師は禁煙パッチをくれるそうだ。実際に使用するとむず痒くなるらしく1週間で使用を辞めたらしい。

 

それと同時にタバコを止めると途端に食べ物が以前よりおいしくなってそちらに惹かれてタバコも吸う必要性を全く感じなくなったようだ。

 

それ以来、父はタバコを一切口にしていない。もうかれこれ10年ほど経つ。過去のヘビースモーカーぶりを思うとすごい変容ぶりだ。

 

ただ父に言わせると本音は「せっかくお金を出してわざわざ娘を旅行に連れて来てあげてるのに何で一人で食事せなあかんねん。」という腹立たしい気持ちになったのがきっかけだったようだ。

 

しかもしまいには食事がおいしくなってどんどん食べてしまって太るという「副作用」の弊害を私に訴えてくる始末である。

 

とはいえ、父が何を言おうと今でもこの禁煙コーチングが唯一にして最大の父への親孝行だったと胸を張って思うし、我ながらよくやったと感心して今でも周りに自慢しまくっている。

心と体に効く瞑想 <第四回> 〜体感〜

私の知る限りミャンマーでヴィパッサナー瞑想を学べるセンターは、ヤンゴン市内と森の中の2ヶ所にある。私が体験した森の瞑想センターの施設内は宿泊所や食堂なども含め、きちんと整備されている。

 

ただデング熱の感染予防目的で随時消毒剤がスプレーされているシンガポールと比べると、やはり自然の手付かず感は否めない。「殺生を控える」という仏教の教えにもとづいていることも関係しているのだろう。

 

部屋にはすぐに蚊もアリも堂々と入ってくる。そのサイズは揃って大き目。それどころか、鳥や犬に至っては態度まで大きい。人間が自然や動物と共存できている証拠に違いない。

 

本来、瞑想者は目も見えず耳の聞こえず話せない病人か死人のように振る舞わなければならない。が、最初の数日間は美しい自然に魅せられるうちにそんなこともうっかり忘れ、すっかり「ハイジモード全開」で心がはしゃいでいた。

 

「歩いて瞑想」をする1時間では、施設内を散策できる。本来、スローモーションで歩くべきところが、ついいつものクセでせっかちさによるスピード感丸出しだ。ビーチサンダルのカカト部分も地面を跳ね返す時にペタッペタッと音を立ててしまう。

 

初日からこれはいけない。いっそのことビーチサンダルを脱ぎ捨てた方が早いとキッパリと裸足になった。五感を研ぎ澄ませる上でも役に立つはず。もうそれだけでちょっとたくましくなれた気がした。

 

今、振り返るとその発想こそが「瞑想センター体験から早急に結果を得たい」というせっかちさの象徴みたいで自分でも笑えるが、その時は真剣だった。

 

但し、敷地内だったら裸足になっても大丈夫だろうという憶測は見事に外れた。セメント敷の通路や木でできた橋を歩くだけなのに裸足で歩くことに慣れないせいか、思いの外結構痛い。

 

よく見るとセメントの表面がスムーズでないのだ。セメントが固まらないうちに歩いた鳥や犬の足跡がしっかり残っていたり、枯葉がたくさん落ちていたりする。昼間は直射日光で照らされて熱いところもある。

 

痛いので自然とスローモーションになれたのは良かった。しかし、裸足で歩いていると「スリッパ忘れたの?」とベテランの尼さんに心配され「アリに噛まれるよ〜」と警告を受ける。

 

さらにミャンマーでは朝昼晩の温暖差が結構ある。昼間歩いて汗をかいたままでいると夕方から冷え込んできた時に急に寒気がしてクシャミが止まらなくなるのだ。

 

10日間の長丁場を乗り越えるのに健康管理は最優先事項だ。早急に裸足で過ごすことは諦め、むしろ入念に靴下を履いてからビーチサンダルを履いた。

 

普通の靴下しかなかったので履きながら勝手に足袋化させる。洗って昼間、外に干せば数時間ですぐに乾くとはいえ予備がもう一足あって良かったとホッと胸を撫で下ろす。

 

汚れが目立たないという目的だけで購入されたなんの変哲も無い黒い靴下と、引っ越したばかりだったので室内向けに何となく近所のコンビニで買った安価なビーチサンダル。1日だけでも裸足で外を歩く体験をした後には、足の裏にソフトな温もりとクッションの柔らかさを感じ、物のありがたみを痛感した。

 

後で知ったのだが、ミャンマーの僧侶は托鉢に出る時に裸足でなければいけないそうだ。結構ゴミも多い街中をずっと裸足で歩き続けるのは相当大変なはずである。

 

人生、経験に勝るものは無い。短い時間であれ何事も体験すればするほど共感力が高められていくのを身を持って体感できた。

心と体に効く瞑想 <第三回> 〜気付き〜

GReeeeNの名曲「SAKAMOTO」の動画をご存知だろうか。トリックスターのリーダー、だーよし氏扮する坂本龍馬が東京にタイムスリップし、現代を満喫するというストーリーだ。

 

瞑想をしながらふとこの動画を思い出した。10日間、とことん我が身を振り返って自分の本質に気が付いた。浮かび上がったのはまさしく「現代にタイムスリップした尼さん」のイメージだった。

 

今回体験したヴィパッサナー瞑想は、インドに伝わる最古のもので、2500年前にブッダがその方法を見出したと言われている。しかし、この瞑想自体は宗教とは関係無いのでクリスチャンも仏教徒も学ぶことができる。

 

とはいえ、瞑想センターに行って驚いたのは、私の四方八方を囲んでいたのは揃って、若くして出家した尼さん達だったということだ。彼女達は主に中国、韓国、ベトナムの出身だった。

 

原則的に誰とも一言も喋ってはいけない、インターネットも無いというデジタルデトックスの世界。かなり苦痛に違い無いと思い込んでいた。

 

ところが実際には、森の中で規則正しい生活を送り、ベジタリアンのシンプルなお食事を頂くこの生活をむしろとても気に入ってしまったのだ。

 

なんという快適さ。自然に囲まれて心が幸福感で満たされる。もしやこれは私にとってむしろ居心地の良いコンフォートゾーンでは無いか。

 

そんな想いを決定付けたのは、バイリンガルな尼さん達が困った外国人をイキイキと助けている姿をだった。

 

基本的に瞑想している時には目も見えず耳も聞こえず話もできない病人のように何事もスローモーションで振る舞う必要がある。

 

それは体に意識を向けて「今、ここ」に五感を集中させるためである。浮かんでは消えてゆく思考や感情もひたすら観察をして心身ともに浄化をはかる。

 

普段はそんな静の世界の住人である彼女達も、オフィスでゲストのお手伝いをしている時にはうって変わって、瞳をキラキラ輝かせながら姿勢良くテキパキと効率良くリクエストをこなしていくのだ。

 

(あぁ、私が目指しているのはこれだったんだなぁ)としみじみ感じた。私は現在、プロの通訳者なのだが、この奉仕をするサーバントリーダーシップこそが私の目指すあり方だと改めて実感した。

 

自分の本質が「瞑想で心身の浄化を目指すバイリンガルの尼さん」だということを認めるといろんなことが腑に落ちた。待ちに待った「プチ出家」を実現できてようやく踏ん切りがついたのだ。

 

やっぱり私にとっては、結婚することの方が尼さんになるより難しいので、機会があればその難しい方にチャレンジしようという結論に至った。

 

とはいえ、尼さんにもなれるとわかった時点で、もはや結婚しなかったとしても、人に迷惑さえかけなければ大丈夫だという確信も生まれた。

 

ずっとやってみたいと気になることはどんどんやってみる。そこには答えを導くカギが隠されているに違いない。

 

楽しすぎる森の中での瞑想。ミャンマーの友人は年に一度ある10日間のお休みを毎年瞑想に費やしているそうだ。気持ちはよくわかる。今すぐにでも「心の旅」に専念する日々を再開させたくてたまらない。

心と体に効く瞑想 <第二回> 〜きっかけ〜

ミャンマーからシンガポールに戻って3日目。社会復帰できるかどうか、若干の不安がよぎっていたが、今のところすこぶる順調である。

 

ご縁というのは不思議なものだ。ひょんなことからミャンマー人の方と出会い、この森の瞑想センターについて教えてもらったのは2014年の9月だった。

 

いろいろな事があり過ぎて、もうどうしようもなく現実逃避をしたくなった私は、同年末、瞑想をしにミャンマーのヤンゴンに向かった。

 

行くと決めたら話は早い。森の瞑想センターの予約もし、白いシャツと長いスカートのような瞑想用のロンジーも購入、あっという間に準備万端だった。

 

にも関わらず、100ページにもわたる契約書の翻訳が終わらず、結局、10日程、ホテルに缶詰めになった私は結局、瞑想センター瞑想できずじまいで無念の帰国をしたのだった。

 

滞在中、「せっかくヤンゴンまで来たんだから瞑想センターを見学して行ったら?」とミャンマー人の友人に提案してもらったおかげで、瞑想センターをひと通り見学する機会を得た。

 

空港からはだいたい1時間くらいの場所に位置する瞑想センターの敷地は結構広い。眺めの良い蓮池もあり、ゆっくり歩いて見学などしていたらあっという間に1時間くらいかかりそうな広さだ。

 

「この瞑想センターのマスターを紹介しますね」と紹介されたのはウ・パンディタ・サヤドウ氏。アウンサンスーチー氏も師事していたのが目撃されている。

 

当時、同氏はまさかの93才。とても若々しく元気なそのご様子からは到底信じがたかった。やはりこれも瞑想効果に違いないと至極感心したのを思い出す。

 

面会してありがたいお言葉を頂いたのだけれど、今となっては残念ながら何一つ覚えていない。でも彼の穏やかなまなざしや謙虚な佇まいは印象的で今も忘れられない。

 

森の瞑想センターは創立者である彼の名にちなんでパンディタラマセンターと呼ばれている。彼は7才で出家しヴィパッサナー瞑想を学んでからは多くの生徒達に教えてきたそうだ。

 

ヤンゴンまで行って結局、瞑想できなかった無念さを払拭すべく、近いうちに必ずまた来ることを心に誓った。

 

日常生活と仕事に追われながら、ミャンマー行きを先延ばしにしていると、昨年4月、同氏が他界したことを知らされた。

 

(なんとか時間を作らなくては)という想いを強くする中、偶然にも不思議とヴィパッサナー瞑想について語る日本人が3名現れた。そのうちの1人は体験者でもある。

 

「3回言われたら行動に移さなければならない」というマイルールを設けている私にとって、これは一大事だった。もう何が何でも行かなくちゃという気になった私は即座にミャンマー行きを決めたのだ。

 

何事もやると決めたら道は開ける。10日間もメールや電話のやりとりは一切無し。緊急事態以外は音信不通になるのだけれど、周りの方々からも応援して頂いてスムーズに事は運んだ。

 

良い時はトントン拍子で物事は進む。言い出すのにはかなりの勇気がいったし、決めてからも、中にはもちろん「10日間も瞑想?!」とネガティヴな反応が全く無かった訳ではない。でもそんな現実をしっかり受け取るのも今、振り返ると必然だったとよくわかる。

 

とりあえず都合の良いタイミングでフライトを予約、ギリギリまで仕事をし、引き継ぎを終えて何とかミャンマーに向かった。

 

ヤンゴン国際空港に着くと迎えに来てくれたミャンマーの友人が教えてくれた。私が瞑想を始めるその日は、なんと偶然にも故ウ・パンディタ・サヤドウ氏が遺灰となって約1年ぶりにパンディタラマセンターに戻って来る日でもあったのだ。

 

おかげさまで彼の魂に温かく向かい入れられているのを感じながら私の瞑想生活は始まった。ご縁とはつくづく不思議なものである。