心と体に効く瞑想 <第一回> 〜効果〜
「森の中で瞑想したい!」と最初に思い立ったのは2000年にバンコクでバックパッカー旅行をした時だったと思う。生まれて初めて象に乗りハイテンションだったのを思い出す。
それ以来、タイをえらく気に入った私は、旅を共にした「地球の歩き方」を熟読し、次にタイに行く時はチェンマイの寺院で瞑想したいと何となく決めた。
それから早17年。場所は違えど、昨日、ミャンマーのヤンゴンの森で10日間の瞑想を終えて無事にシンガポールに帰還した。
瞑想に関してだけ言うと、私は2004年にエネルギー瞑想を学び、継続してきた。それに対して今回学んだのはインドで最も古く2500年前にブッダによって再発見されたヴィパッサナー瞑想だった。
10日間。長いようであっという間に過ぎた日々。内側にも外側にもいろんな変化が起きた。まだ胸がいっぱいでどこから書き出したらいいかわからない。
だからこんな時こそ書く意味があるのだろう。ブログは日記みたいなもの。書くことでスッキリすれば良いくらいの気持ちでまずはどんどん書き進めることにした。
10日間の瞑想を終えて思うこと。それはもう「人生の中でたった一度でも良いから、ぜひとも漏れなく全員に体験してもらいたい」と心の底から願ってやまない。
その効果のほどを一言で表現するには「憑き物が落ちた」と言うのがもっとも相応しい気がする。現時点で私個人にのみ当てはまる言葉なのかもしれないが、文字にするとよります一層しっくり馴染んできた。
そしてそれはたった一回きりの体験で激変するというよりは「最新版のソフトウェアをアップデートし、かつ修正プログラムをダウンロードする」というメタファーが近い気がする。
さらに終わってしみじみ思ったのは、この体験はこの一回で完結しているわけではなく、あくまでも「旅は始まったばかりだ」ということだ。
では実際にミャンマーの森の中の瞑想センターで、一体全体私は何をしていたのか。それは予想以上に心身共に健やかになるための超実用的なプログラムだった。具体的なスケジュールは以下の通り。
3:00 起床
3:30 〜 4:00 歩いて瞑想
4:00 〜 4:45 座って瞑想
4:45 〜 5:00 朝の詠唱
5:00 〜 6:00 朝食
6:00 〜 7:00 座って瞑想
7:00 〜 8:00 歩いて瞑想
8:00 〜 9:00 座って瞑想
9:00 〜 10:00 歩いて瞑想
10:00 〜 10:30 食堂へ移動、昼の詠唱
10:30 〜 11:30 昼食
11:30 〜 12:00 食後の休憩、瞑想室へ移動
12:00 〜 13:00 座って瞑想
13:00 〜 14:00 歩いて瞑想
14:00 〜 15:00 座って瞑想
15:00 〜 16:00 歩いて瞑想
16:00 〜 17:00 座って瞑想
17:00 〜 18:00 ジュース、歩いて瞑想
18:00 〜 19:00 僧侶による講話(録音を聴く)
19:00 〜 20:00 歩いて瞑想
20:00 〜 20:45 座って瞑想
20:45 〜 21:00 夜の詠唱
21:00 〜 自室で歩いてまたは
座って瞑想
睡眠 (4〜6時間のみ)
つまり歩こうが座ろうがずっと瞑想をしているのである。他の人達と会話してはいけない。文字通り「自分との対話のみ」が徹底して行われる10日間だった。
続く
今年こそ目標を達成するには
旧正月の大晦日にはとうとう言いたいことを私なりの表現方法を用いて惜しみなくお伝えできたことに大きな達成感を隠しえない。
ともすると、ゲシュタルト崩壊疑惑をかけられなくも無いことも承知の上、思い切って書き残したところ、コメント欄には「年忘れ放談(笑)」とのありがたい書き込みを頂き、ひたすら承認欲求が満たされ自己受容感も増大している。
なぜ私はあえてお下品極まりない表現を選んだのか。それは言うまでもなくわかりやすさを優先しているからに他ならない。
以前の私は美しいものだけを求めていた。スピリチュアリズムの神秘主義的な側面にも魅かれていたし、実のところ今でもバラや天使など美しいものが大好きだ。
その一方で美しさを追い求めるあまり、若干現実世界から遠のいていく事実も認められ、地に足がついていない時があるのも自分なりに感じていたのだ。
そんなことを漠然と感じている中、その思いを裏付ける衝撃的な出来事が起きた。それはまさしくスピリチュアルブームの牽引者である故船井幸雄氏が生前、最後に書かれたブログを読んだ時だ。
彼はビジネスから哲学、そして特に晩年は精神世界にまつわる書籍をたくさん遺された。私も何冊も読んで影響を受けていた。なのでこの最後のブログを是非とも皆様にも読んで頂きたく、以下に引用する。
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いまの世の中は、スピリチュアルなこととか食とか遊びなど、どうでもいいことに浮かれている人に、かなり焦点が当っています。一度そのようなどうでもいいことは忘れ、現実人間にもどってほしいのです。そうしますと、「あっ」と、びっくりするほど、自分のしていたムダに気づくでしょう。間違いも分ると思います。
いずれにしましても、今年こそは、地に足のついたよい仲間をつくり、仲間間で助けあい、地道に生きてほしいのです。一人ではムリだと思います。
いまさらスピリチュアルやおいしいものに夢中になるという時ではありません。
ぜひ生きるのに必要なことに今年は全力投球をしてください。
ただ、将来への夢と希望は忘れないようにしてくださいね。これらは大事です。
(舩井幸雄.com 「舩井幸雄のいま知らせたいこと」2014年1月6日「賀正」より)
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たった今、これを読み終えたあなたの中に、どんな気持ちが浮かんでくるだろうか。このメッセージはいったいどんな意味をもたらすのか。
このブログを読み返すと今でも全身が信じ難い想いに包まれる。私にとっては天と地がひっくり返るくらいの大事件だった。
実際にこのブログについて多くの方が論じている。反響の大きさから「スピリチュアルの意識革命」を呼び起こしたと言っても過言では無いのではないかとさえ思う。
3年経った今でも何度も読み返してしまうし、事あるごとにいろんな方にシェアしているから、昨日も年始の会で早速このネタを元に持論を展開した。
さらに故船井氏にとってこの発言はいったいどういう意味を持つのか。これまで長い間、推奨してきたことの真逆になるこのメッセージをどうしても伝えなければいけなかったのはなぜか。いずれにせよ彼は強い思いに突き動かされたに違いない。
ポイントとなるのは「以前から気づいていたにも関わらず発言していなかったのか」、それとも「このメッセージを発言する時にやっと気が付いたか」のいずれかだと感じる。
前者だとしたら一部の方が論じるように彼にとってスピリチュアルは単にビジネスであり、お金儲けの手段だったと解釈されてもおかしくはない。
後者であれば、「今半病人の私は直感が冴えています」と本人も述べたように亡くなる直前に勘が鋭くなって大きな気付きがあったので「これを伝えずして天命を全うできない」と感じたのであろう。
いずれにせよ、故人に口無しだ。「生きがいの創造」シリーズのベストセラー作家である飯田史彦氏も数々の精神世界の謎は「いずれ死んだらわかるんです」と述べている。私もあの世に行って故船井氏に出逢える機会があれば「あれって本当のところどうだったんですかねぇ?」と朗らかにぜひ確認したいところだ。
日々、前向きに生きる私は相変わらずスピリチュアルが大好きだ。関連書籍も入念に読むだけでは飽き足らず、自らの気付き、学び、成長の体験談をシェアし、あらゆる業種の方と活発な議論を繰り返す。
さらにおいしいものと言えば、私の頭の中はアンリシャルパンティエのケーキをはじめとするデザートのことでいっぱいだ。
先日も日本の品種の美味しいイチゴがマレーシアのカメルーンハイランドで栽培している方と出会い、試食が止まらなかった。そのあまりの美味しさに、ちょっと拝借したイチゴ帽までかぶって「シンガポールでこのイチゴを使ったいちご大福を販売して欲しい♡」と一晩中懇願していた。
その後の調査で高島屋では定期的に販売されていることが判明したので、近々、買いに行ける日を心待ちにしている。
遊びと言えばSNS。ノーフェイスブック、ノーライフと言うぐらい、朝昼晩に開いてはいろんな出来事に一喜一憂する毎日だ。もはやSNSはマズローの5段階欲求の底辺より下に位置する6段階目でないかと思われる程、生活から切り離せない。
そんな私にとって、故船井氏の前述のメッセージは警告として胸に刻まれている。「地に足をつける 」というのは、私にとってはずっと先延ばしにしてきた「結婚」に違いない。
人生を良くするために必要なたった1つの真実
「心」というのは目に見えない。それゆえこれまでいろいろな定義がなされてきた。古今東西、活発な議論も行われ様々な分野で取り扱われている。
それは精神科の領域から心理学にまで至る。さらにIQに対して感情の知能指数と呼ばれるEQも生み出された。もう少し範囲を広げればはたまた宗教、哲学などまで多岐にわたる。
それだけにとどまらずスピリチュアルブームも起きて「魂」の話に及んだかと思うと「霊」まで出てきていつの間にかオカルトの話になっていたりする。
やはり「目に見えない」話を突き詰めていくうちに、いつの間にか、イコール「怪しい」という印象が生まれるのは否めない。
とはいえとても重要な課題なのでどうしたらもっとわかりやすく説明できるかを日々考えているとやっとしっくりくる例えが浮かんだ。
正直、以前の私だったら決して口にできないメタファーだが、あえて声を大にして伝えたい。
ただ、我ながら決してお上品な表現ではないどころか、お下品極まり無いことに気付いている。よって予めここで免責されるよう以下の文章を付け加える。
ここから先を読まれる方は、仮に今、お食事中だとしたら、一旦、読むのを止めて下さい。そして、お食事が終わってから入念に読み終えることを推奨します。
ポーズ
では心の準備ができた方は進んで下さい。
その昔、私はあまりにもお腹が痛くなって、我慢ができずとうとう病院に駆け込んだ。原因がわからずにX線まで取らされ、ドクターはお腹のレントゲン写真を見せてくれた。
白黒の写真を目の当たりにして「胸部の脂肪というのは一部映り込むから不思議〜」と思いつつ、痛みが激しい下部に目をやると、なんとそこには白い影があるではないか。
(うわぁ、もう一貫の終わり)と内心震えながら私は恐る恐るドクターに聴いてみた。「これは何ですか?」
するとドクターは淡々と「ガスですね」と教えてくれたのだ。
なんと!私の辛い痛みの原因はオナラだったのか。マジか、マジなのか。すぐには信じがたい事実を突き付けられた。
たかがオナラ、されどオナラ、決して侮れない。溜まったオナラは下腹部に大きな痛みをもたらしていたのだ。
そして最近やっと気が付いたのだけれど、実は心にも全く同じ事が起きる。たまにというより結構頻繁に起きている。
我慢に我慢を重ねて積み重なった行き場を失った憤り、悲しみ、憎しみ、嫉妬、悔しさなどなど挙げればキリがないが、こういった感情はしっかりと「心のオナラ」になっていく。
無意識下にいろいろなネガティヴな感情を溜め込んでいると、そのうち本当に具合が悪くなってくる。それはまさにオナラが大腸に溜まって下腹部が痛くなるのと同じことではないか。
最近「オーラが良くない人」というのは、つくづく「心にオナラが溜まった人」に違いないと感じる。
そして誤解を恐れずに言うと「憤り、悲しみ、憎しみ、嫉妬、悔しさに任せて口頭で人を叱り飛ばす人」と言うのは、まさに「長い間、苦しい便秘に悩まされた挙句、一挙にウンコをまき散らしている人」と同義語だと感じるようになった。
更にこの際だから言うと、なぜかそういう状態が普通になってしまって、気が付けばそういった「心のオナラやウンコ」を大切に保管し、何度でも観察しにいく習慣を意識的にも無意識的にも生み出してしまうというマニアックな事態まで起きていることもある。
これは非常に恐ろしい。目に見えるオナラやウンコだったらきちんとおトイレで始末できるのに、目に見えない心のオナラやウンコだと突然どうして良いかわからなくなる人が多いのだ。
だから心に何か引っかかるものを持つ人には、今一度、自分の心にしっかりと向き合う時を持つことをオススメしたい。
きっといろんな感情が浮かんでくるけれど、目を背けずに感情に向き合うことを自分に許可して欲しい。まずはそうするだけでもどんどん手放しが加速する。
旧正月の大晦日の今日、私は皆さんに「長い間心に溜まったものをデトックスしてスッキリと新年を迎えましょう♫」とお伝えしたい。
願いをどんどん叶えるには パート2
「努力はしているのにイマイチ結果がついてこない」あるいは「結果は出たのに微妙に運が悪い」そんな方達の相談を受けていて気が付いたことがある。
それは彼らがきまって自分のことを「犠牲者」だと感じていることだ。そしてあろうことか本人はそこに気が付いていない。誰だって「犠牲者」になんかなりたくないのだから至極当然だろう。
ではいったいそれが願いを叶えることとどう関連しているのか。これがつまりセルフイメージと呼ばれるところの「自分が自分のことをどう思うのか」という話になるのだが、これは相当に重要なことだ。
コーチングをしていても、相手によって、最近の私は超効率重視なので「犠牲者だと思っているでしょう」とズバリ、本人に指摘する。
そうすると「そうだねぇ」と納得する人もいれば、痛い所に命中し過ぎたのか、一気に噛み付かれて大変な思いをしたこともある。
まあ去る者は追わない主義なので、噛み逃げされても一向に構わないが、その後の本人のことを思うと苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
単に「一刻も早くラクになって欲しい」から言っているだけなので、誰も言ってくれなくなった後、どんな風に生きていくのだろうかと想像すると深いため息が出る。
なので、そんな方達に向かってせめてここに記したい。「どんどん願いを叶えている人達」は、もはや勝ち負けの世界にいないし、シェアすればするほど受け取って循環するのを知っているのだ。
そんな彼らは常に自分達がベストなタイミングでベストな場所にいられるとわかっているから自然と助け合える。
「全ては必然」これは私の一番好きな言葉だ。タイミングが合わないことにすら意味がある。私とはご縁が無かったけれど、いつか楽しく願いを叶えられるようになっていて欲しいなぁと祈りながら、今ではゆったりと構えている。
願いをどんどん叶えるには パート1
世の中には次から次へと願いを叶えてしまう人達がいる。そういう人達に共通して言えることは「片づけ上手」だということだ。
それは何も目に見えることだけに限らない。彼らは例にもれず頭も心もスッキリと片付いている。
なぜなのか。それは彼らが「未完了を完了させる」あるいは「手をつけたことを一時停止させる」のが得意だからだ。
「目に見えないコト」なのに、それはあたかも、必要な時にだけ必要なモノを引き出しから取り出すかのごとく整理されている。
過去に起きたこともリソースとして今と未来に使えるモノだけを残す。要らなくなったら即座に忘却の彼方へ追いやるのを得意としているようだ。
それができれば、今、持ち得るエネルギーを目の前のことに100%集中できるから願いがどんどん叶う。叶えば叶うほど楽しいので、最短で叶える方法を身に付けてますます叶えられるようになる。
逆に「未完了の項目」がたくさんあると、漏電するかのようにエネルギーがダダ漏れるので、何1つ達成できない、あるいは達成するのに時間がかかる。
そしていくつもの宙ぶらりんなコトに気を取られているうちに集中力も欠けてくる。人間は慣れるとそういう事柄を無意識に押しやるのか、気が付けばたくさんの「ごみの山」で頭も心もいっぱいになっているのだ。
特に気を付けないといけないのは、客観的にその状況を見たら「とっくの昔に完了している」のに自分が本心からはそれを認めたがっていない、あるいは引きずっている場合である。
津波で遺族を亡くした方が一番辛いのは遺体が見つからないため、最期に面会できずお葬式でお別れができないことらしい。頭ではわかっていても心の中では「未完了のまま」なのだ。
そういう心の中の気がかりになることが積み重なっていくと、燃費の悪いクルマのように努力しているのに達成できないがゆえの無力感に襲われる。
そしてそんな状況が続くと自己嫌悪に陥ってみじめな気持ちになっていく。まったく悪循環とはこのことだ。
年の瀬になるとそういう頭と心のごみも一掃して、何もかもリセットしたくなる。「来年こそは」という希望にあふれると不思議と行動量も増える。
ただそんなやる気がみなぎるわりには、師走はなんだかんだ忙しく、時間が足りなくて大晦日に間に合わず「未完了を完了させるが未完了なまま」お正月を迎えることも多い。
そんな時に私は「大丈夫、旧正月に間に合えば良いんだから」と自分に言い聞かせる。なんと今年の旧正月は1月28日、あとまだ10日以上もあるではないか。
旧正月前のお片づけのことをこちらではスプリングクリーニングと呼ぶ。微妙なもやもや感を払拭すべく、ラストスパートで手離しを加速させて、ニワトリだって空を飛べそうな飛躍の酉年に備えたい。
「結婚運」って何?
「あなたにはもともと結婚運が無いのよ」私は立て続けに複数の「見える」方達からこう言われた。
彼らによると、「結婚運が無い」というのは「異性運が無い」ことも意味するらしい。
そしてもともと「結婚運」が無い私のような人が結婚すると結局は離婚、あるいは死別するそうだ。
おそらく結婚したとしても、もともとお互いに「結婚運が無い」者同士が出会ってしまうからそのような結果になるのかもしれない。
「婚活中です♫」というわりには頭が常に出家願望で大半を占める私は、むしろそう言われてホッとした。
人は生まれる前に自分で自分の生き方を決めてくるという。だから私も生涯独りで生きていくと予め決めてきたようだ。
良き理解者を得たかのように心の中からは違和感が消え去り「自己一致感」で満たされるようだった。
そうのんきに構えていたら「見える方」のうちの1人がこう言った。
「あなたは先祖のお墓を護るお役目があるのよ。だから結婚しないで家に戻るの」と言われた。
(えぇぇぇ、そんなことってあるの?!)
そう言われてみると思いあたるフシがいくつもあった。過去の数々の点と点の不思議なできごとが線でつながっていくようだった。
ただ、私には弟がいる。普通は弟がその役割を引き継ぐのではないのか。
その「見える」方いわく、その役割を弟に託し、今からでも頑張って「結婚運」に磨きをかければ、なんと「異性運」と「結婚運」の両方を獲得できる希望があるらしい。
(なるほど〜、世の中はうまくできている)、おめでたい私はちょっとその気になった。
そう、最後の望みの綱は「やる気」なのだ。
ハッキリ言って「見えない領域」の話はポジティブにもネガティヴにもどっちにもころぶ。結局は自分が信じたいことだけを信じるのが人間だ。
ぶっちゃけ私だって耳触りの良いことを集めて都合良く解釈をして悦に浸っている。
ヒトは注目されたところが増えるようにできているそうだ。良いところをたくさんほめればほめるほどそこがどんどん伸びるらしい。
だったらやっぱり私はポジティブなことを増やして気分良く毎日を過ごしたい。そうしてなんとなくでも「人生は自分の手で変えられる」と思えるだけで可能性は広がっていく気がするのだ。
「癒しの本質」(3)
南国の照りつける太陽のもと、駅まで歩く途中、ふと「Heal your soul, Live your life」というフレーズが降りてきた。
「魂を癒して自分の人生を生きる」と和訳してみた。これこそまさに私が一貫して伝えようとしてきたことだ。
「魂のクセ」というのはずっとそこにあるらしい。それをどうにかするために自ら課題を与えて、それをクリアにするために生まれてきたという説もある。
「魂のクセ」は「取る」と決めて「自分で取る」ものなので他の人に取ってもらうとなると無理があるらしい。
だから「魂のクセ」を取り除くお手伝いというのはある意味「余計なお世話」なのだ。自分の意志で持ち運んでいるものを他人がそれに気付いたからと言って「取りましょうか」というのは本人から「せっかくの貴重な学びの機会を奪う」ことになる。
なので自然とそういう側面で助けを必要としている方がどうしてもお手伝いして欲しい場合、またはお手伝いして欲しい様子だけれど言い出せない場合には「本人の許可と同意を得た上でお手伝いをする」というのが好ましいスタンスとなる。
これがきちんとしたステップなのだけれど、そういうのは無意識レベルで行われているのか、最近は全く別件でお会いしたにも関わらずいつの間にかそういうお話をする機会に恵まれる。
そして最近顕著に見受けられるのは、そんな相手とお話する中で気が付けば結果として、本人が納得するカタチで「魂を癒して自分の人生を生きる状況に近付く過程」を引き寄せていることが多い。
「魂のクセ」を少し取り除いたからといって即座に劇的に人生が変わることもあるが稀である。古いクセと生きるのは居心地がいいからまた戻ってしまいがちだ。生きている以上、無限ループの中にいるのかもしれない。
だから「癒し」はあくまでも「過程」だから「魂のクセ」との付き合い方を見いだして、うまく折り合いをつけていくことが大切だ。
それはひょっとしたらアトピー性皮フ炎やじんましんに例えられるかもしれない。ずっと治ったり治らなかったりしてあり続ける。
でもそのおかげで普段から食を含む生活習慣に気を配るので大病をしなくて良いという利点が望める。