「結婚する意味ってあるんでしょうか」という問いについて

結婚について書くと反響があるので引き続きもっと書こうとモチベーションがあがっている。

 

婚活を本格的に始めた途端、その過程において自分と向き合うことが多くなっため、たくさんの発見がある。

 

最近は婚活そのもの及びそれにまつわる談義が一段と楽しくなってきてしまったことにより、結婚がさらに先延ばしになる懸念まで出てきた。

 

毎日、婚活のことを考えていると理想的なダンナ様像がより明確になってくる。そんな理想の家庭的なパパに思い切って冒頭の「結婚する意味ってあるんでしょうか」という質問を投げかけてみた。

 

すると「結婚にはメリットとデメリットがあるけどした方が良いですよ」とポジティブな回答を得た。

 

直球だったので「あのぅ〜、デメリットはもう既にいっぱいわかっているので、メリットだけ教えてもらっていいですか?」と正直にお願いした。

 

そんなわがまますら爽やかに受けとめた上で、短い時間に端的に答えを頂けたので、以下にまとめる。

 

(1)経済的安定
結婚して何が良かったかというと、やはり万が一自分が働けなくなってもパートナーが働いてくれているという安心感がある、ということだった。そしてその結果、心に余裕ができるらしい。

 

私も一生手足を動かしてお仕事をしたいし、お金を殖やし続けたいのでその感覚は理解できる。気持ちにゆとりがあればあるほど仕事のパフォーマンスも良くなるからだ。

 

(2)社会的ステータスが変わる
ステータスが「上がる」わけではなく「変わる」のだそうだ。つまりそれは「なんでその年にもなって結婚していないの?」と言われなくなるということを指すとのことだった。

 

確かにそれは想像しただけでも精神衛生上、凄まじく状況が良くなることは想像に難くない。

 

(3)法律で保護されている
結婚すると配偶者手当など法律で定められた金銭面などの待遇を受けられる。

 

結婚した途端、独身では得られない恩恵を受け入れられるようになる。想像するとそれはバトンを受け取るような感覚で、受け取ったら次の人に渡そうという気持ちが浮かんでくる気がした。

 

(4) 無条件の愛
「何があっても支えてくれる人がいる」というのは何物にもかえがたい幸せなのだそうだ。それは「常に自分のことを思ってくれている人がいる」という心の支えになるらしい。

 

当然、意見が違ったら、お互いに折り合いをつけなければいけないので、どちらかの意見を優先することになるけれど、それもきちんと話し合って決める。

 

確かに家族、最近では特に愛おしすぎる甥っ子と姪っ子は無条件にかわいいし何でもしてあげたい。自分の子供だったらなおさらで、毎分毎秒一緒に泣いて一緒に笑ってしまうかもしれない。

 

(5) ロジックではない
「卵子の数を数えていつまで妊娠できるかを確認したいんですけどどう思いますか?可能性がありそうだったら期限を決めたら良いし、ダメだったらダメであきらめもつくかなぁと思って」と聴いてみた。

 

すると「妊娠っていろいろな条件が重なってできるもので奇跡みたいなことが起きて授かるものだから、まずはお相手を見つけてそれから試験を受ける方が良いと思いますよ」と言われた。

 

どうやら私がしようとしていたことはロジカルなアプローチらしく、結婚したらそもそも「これはイヤだからイヤ」という2歳児の感覚みたいなものが正しいことが往々にしてあるのだそうだ。


論理より直感が優先される世界。そう言われるとちょっと気持ちがラクになる。「理由なんか無くてもいい」、それこそが前述の「無条件の愛」らしい。

 

(う〜ん、結婚して子供を持つとこんなにも人間が大きくなれるのかぁ)と思うとぜひ結婚してみたくなった。

 

結婚したら毎日、いろいろと大変だからこそ、心もこんなに磨かれていくのだろう。世の中のお父さんとお母さんに心からの敬意を表する。

「なぜ結婚できないのでしょうか」という問いについて

以前「『なぜ結婚しないんですか』という問いについて」というブログを書いたらオンラインでもオフラインでも様々な反響があった。

 

それ以来、定期的に「結婚願望のある独身」が集まると、そこに幹事として私達を暖かく見守って下さる既婚者で家庭人の人生の先輩からもアドバイスを頂くようになった。

 

出会う度に「結婚は素晴らしいですよ」とか「独身でいるのはもったい無い」とリマインドして頂けることは本当にありがた過ぎる。

 

加えて相変わらず自分のことは棚に上げていろいろな方の相談に乗って勝手にアドバイスをする機会にも恵まれたため、いくつかアイデアがまとまったので繰り返しになる部分もあるが、重要なポイントをここに記したい。

 

(1) 「結婚相手と一緒にいる自分」をイメージする
脳の中にすら思い浮かばなかったことは何一つ実現しないそうだ。だからまず最初に「自分に伴侶がいること」を想像するのが第一のステップとなる。

 

日々、既に起きていることの延長である仕事などはたやすくイメージできても、まだ見ぬ自分の結婚、出産、子育てに関しては単純にイメージがわかないということも多い。

 

だから既に結婚している人の日常に目を向けて「結婚相手と過ごす」というのを少しずつ想像してみるところから始めてみるのが良さそうだ。

 

そういうご家族と触れ合うお時間も無い場合、フェイスブックでお子さんがいらっしゃる方の投稿を熟読し、いつか自分もそんな風に投稿しているシーンを妄想することをオススメする。

 

(2)「結婚とは何か」を考える
「結婚って賭けだから。結婚してから相手の良いところも悪いところも見えてくる。」とは人生の先輩からの名言である。

 

付き合いが長くなるにつれて幻滅し、減点法で相手を見てしまうのかと思いきや、長年夫婦生活を送られる方から「良いところが見えてくる」と言われて(なかなか新鮮な発見だなぁ)と私は感激した。

 

だから「すごく好きになり過ぎた人と結婚しない方がうまくいく」というのも何となく納得できる気がした。「結婚しながらもっと好きになる」のがより理想的なのはそのせいかもしれない。

 

(3) 結婚をポジティブにとらえる
「結婚」を考えた時に参照するのは自分と親や兄弟姉妹との関係性かもしれない。子どもだった私達は保護者の言うことを聞かなければ生きていけない環境にあった。

 

そして当然ながら兄弟姉妹とその親の愛情をいかに自分の方向に少しでも向けてもらえるかを意識的にも無意識的にも競ってきたし、その中でライバル心もあっただろう。

 

もし親や兄弟姉妹に対して、今でも心のどこかに少しでもネガティヴな感情が残っているとしたら許し、手放すことは緊急課題である。

 

具体的には特にホ・オポノポノが良い。「愛しています、ごめんなさい、許します、ありがとう」をひたすら繰り返すのだ。できればそれぞれ100回唱えるのがいい。

 

このホ・オポノポノ、何が素晴らしいかというと、実際にそう思っていなかったとしても繰り返しいえば効き目があるという点だ。

 

だから(そんなこと頭でわかっていてもウザいものはウザいねん)という人にも向いている。とりあえず言霊パワーを借りて浄化をしたら次に進めるというのはすばらしいのだ。

 

3つも書くともうお腹がいっぱいになった気になるので続きはまたの機会にしたい。さらに現時点でここまでは私も充分できていると書きながら納得した。

 

ではなぜまだ独身なのか。振り返れば「結婚していない」イコール「人間として何かが欠けている感」をず〜っと持ち続けていたところがあって、ひょっとしたらそれを引き寄せていたのかもしれない。

 

そういう意味でいうと最近の私はやっと自分に対してひとりでいても「安心感」を持てるようになった気がしている。

 

この「安心感」はどこから来るのか。はっきりいって根拠は無い。だけどやっぱり瞑想とか、自分ができることで貢献するとか、思い切って周りに助けてもらうとか、そういう日々の自分と他者とのやりとりを積み重ねていく中で自然と培われてきたものなのかもしれない。

 

幸いこの感じはどんどん膨らんでいっているので、「一緒にいてもっと安心感に浸れる人」と毎日一緒にいられたらいいなぁと妄想を膨らましている。

「J-POP」という癒し

昨日「前前前世」という歌を初めて聴いてものすごい衝撃を受けた。思いがけず涙が溢れた。そのまま何度か繰り返し聴く度にとめどもなく出た。

 

おかげで一晩明けて、すっかり魂が浄化されたかのようにスッキリしている。前世があるのかどうかという議論は別にして、やはり音楽の持つ癒しパワーはスゴい。

 

ネットで検索するとどうやらこの名曲は紅白でも歌われるほどの人気で2016年を代表する大ヒットソングらしい。シンガポールにいる私がそんなことを知った時2017年の2月も終わろうとしていた。

 

私は敢えてJ-POPには距離を置いていた。日本語の歌詞は魂にダイレクトに響き過ぎてどっぷりセンチメンタルな気持ちになってしまうからだ。

 

J-POPにおいて首位を独走するThe Alfee以外に、ゆず、スピッツ、ミスチルなどがお気に入り。このセレクションで早速世代がばれてしまう。

 

J-POPは好きなんだけれど自分にとって「センチメンタルな気持ち」はポジティブな「キュン♡」というよりネガティヴな「ドヨーン」とした感じだ。

 

年中ホットな赤道直下の国にいても、心の中だけ「秋模様」あるいは「シングルで迎えるクリスマスモード」といった感傷的な気分になってしまう。

 

ではしばらくシンガポールでJ-POPを聴かなくなるとどうなるのか。ここでよく見受けられる代表的な歌詞を例に具体的な事例を幾つか挙げてみる。

 

「会いたいのに会えない」→ 「シンガポールでは会いたかったらすぐに会える。アポを取っていなくてもその辺でばったり遭遇する。」

 

「つないだその手を離さない」→ 「南国で手をつなぎ続けるとまあまあ暑い。」

 

「抱きしめたいのに抱きしめられない」→ 「出合頭あるいは別れ際に普通にハグしあう文化背景がある。ただ私はアレルギーのせいでネコちゃんをハグできないのが唯一悔しい。」

 

J-POPにとっていかに季節感並びに日本的な奥ゆかしい文化が重要であるかがよく理解できる。

 

そんな中しばらく遠ざかっていたJ-POPにまた興味を持ち出したのには理由があった。最近、アジアの若い世代が日本語で一生懸命歌う日本語の歌を間近で聴く機会を得たからだ。

 

思い思いのスタイルでみんな心を込めて歌っているのがよく伝わる。日本語の歌詞にアジアの純真が加わっているのだから涙が出ないわけがない。

 

マイブームはいきものがかりの「ブルーバード」。「はばたい〜た〜ら〜、届かな〜いと言って〜、目指した〜の〜は〜、蒼い蒼いあの空〜」というのが「無限の可能性が拓かれる」気がしてならない。

 

(やっぱりJ-POP良いなぁ〜♪)と思って偶然ユーチューブを見たら「前前前世」が流れ出した。

 

「通称ラッドと呼ばれるRADWIMPSというバンドが歌っている」なるほど〜。公式チャンネルなので視聴しても大丈夫そうだった。

 

何度もこの歌を聴きながら2004年に「前世療法」に出会ったのを思い出していた。この歌に出会ったおかげでその辺りの話をやっとブログで書く決心ができた。

心と体に効く瞑想 <第八回> 〜野生編 (2)〜

ミャンマーの森であっと驚く野生動物に遭遇した。それは午後9時に瞑想を終えて各自が宿泊施設へ戻る途中だった。

 

懐中電灯が全員に貸し出されるものの、等間隔に外灯があるので特に点けなくても平気だと思ってスタスタ歩いていた。

 

それに比べて他のヨギ達は足元を入念に懐中電灯で照らしながら歩いている。それでも私は早く部屋に戻りたい一心で、特に足元に気を留めることもなく懐中電灯は持っているものの使わずに歩いた。

 

瞑想室を出て左手に曲がる。階段を降りて蓮池の横を歩く。そしてまた階段を登ると宿泊施設にたどり着く。

 

部屋のすぐ側の歩道で、私の隣の部屋に泊まっているヨギが立ち止まって懐中電灯で地面を照らしている。無言のまま(ここに気を付けて)と言わんばかりに円を描きながら照らされた場所を見て愕然とした。

 

なんと、あろうことかそこには野生のサソリがいるではないか!全長10センチ以上はある体を持ち上げて戦闘態勢そのもの、攻撃準備万端といった様子なのだ。

 

初めて見る野生のサソリ。(スポットライトを全身に浴び、黒光りして艶めく強固なボディー。S字型の曲線を描くフォルムが美しい。)などと悠長に感慨深い想いに浸る間などあるはずもない。

 

(ひぇぇぇぇ、余裕で絶叫するレベル)と思いつつただただはやる気持ちを抑えてそそくさと立ち去るのが精一杯だった。

 

「ウォォォォ、ナンヤネン、ゴレェェェェ、マジデコワスギンネン、ワレボケカス〜、ギャアアアア!??!!」

 

後ろから凄まじい声が聞こえた。とっさに何語か判別できなかったが、ここには女子しかいない。恐怖のあまり性別を超越し、うっかり内なる秘めた男性性が全開したかのような雄叫び。関西弁で話していたらきっとこんな感じに違いない。

 

案の定、叫び倒すヨギ。野生のサソリを初めて見て驚きのあまり声を抑えずにはいられなかったのだろう。声を出さないルールとかすっかり忘れ去られていた。

 

それにしても尊敬すべきは、懐中電灯で照らし続けたヨギだ。野生のサソリから1メートルも離れていないのだから彼女自身がサソリの餌食になりかねない。それでも彼女は勇気を出して他のヨギ達に注意を促すべく立ち止まっていたのだ。

 

小柄な彼女はいつだって細やかな心配りのできる人だ。私が木製のスタンドでできている物干しを移動していたら窓越しに見えたのだろう。スッと出てきて無言で手を貸してくれた。

 

瞑想の目的の1つは「自分の感情をコントロールして他者を守れるようになること。」午後6時に逐次通訳付きでマスターの講話の録音を聴くのが日課であり、その時に教わったことだ。

 

他者のために自分ができることをさりげなく実践しているヨギ達の優しさに、またもや純粋な慈愛を見出し感動せずにはいられなかった。

心と体に効く瞑想 <第七回> 〜野生編 (1)〜

ミャンマーの森の瞑想センターでは野生生活も堪能できた。初日に部屋から窓の外に目をやると、樹の上に早速かわいいリスを発見して心が和む。

 

別の窓の外には大きな蛾が止まっていた。なぜか地面と垂直に下を向いているので苦しくないのかなぁと思いつつ、目が合ってしまった気になる。

 

本来、外で歩いて瞑想をする時にも病人か死人のように目を閉じ耳も聴こえないようなふりをして歩くべきところが、実際にそうなるまでに数日かかった。瞑想センターの中では「ディスカバリーチャンネル」並みのたくさんの発見があったからである。

 

歩道を歩く時何気なく空中を見上げると、ざっと手のひら大の大きなおどろおどろしい蜘蛛が目に飛び込んでくる。全体に目をやるとクモの巣は1メートルくらいの大きさだろうか。

 

怖がる気持ちを抑えてよくよく見てみると、器用に糸を出しながらクモの巣を張る様子が職人技のようにも見えて、だんだん愛着がわいてきた。

 

橋の上から大きな樹を眺めていると、複数の葉っぱが白い糸状のものでくっつけられてラグビーボールみたいな塊になっている。目を凝らしてよく見ると、どうやらアリの巣になっているらしい。

 

(野生生活はおもしろいなぁ〜)と思いながら自分の部屋に戻ってトイレに入るとトカゲがいる。小さい体なのに結構大きな声で鳴く。

 

シンガポールでもトカゲは室内でよく見かけるので別段、驚くことでもない。が、ある時、便器の横でひっくり返っているのを発見してしまった。

 

(ギャァぁぁぁぁ)と心の中で叫んだ。

 

仰向けになっているということは死んでしまっている可能性が高い。でもとりあえずそのままにして様子を見ることにしてトイレを出た。

 

再びトイレに入ると、なんと仰向けのまま移動している。ということはやっぱり生きている。悩んだ挙句ちょっと水をかけてみることにした。元気に生き返るかもしれない。

 

水をちょっとかけるやいなや、早急に動くとなんと!壁と床の小さいすき間に入ってしまった。全く予想外の出来事だった。

 

(ギャァぁぁぁぁ、ありえない)と再び心の中で叫んだ。

 

あのすき間の中は一体どうなっているんだろう。中でそのまま死んでしまって、かぴかぴになってしまうのだろうか。いろいろ想像すると怖いので、あまり考えないようにしてトイレを出た。

 

一晩明けて再びトイレに入った時には再び仰向けになったトカゲが現れた。でも今回は縁全部にアリがたかっている、ということは確実に死んでいる。

 

(ギャァぁぁぁぁ、もうダメ)と心の中でムンクの叫び並みに絶叫した。

 

もう無理、さすがにくじけそうになった。自然の中でハイジモードで幸せいっぱいだった私は、早くも暗黒の世界に引きずり込まれた。

 

さらに少しだけ冷静になると、トカゲの死体のそばには元気なトカゲがいるのに気が付いた。まるで同胞の死を悼んでいるようだ。

 

(これも瞑想修行の一環なのか。う〜っ、ここにお父さんがいたら助けてくれるのに。でもお父さんいないし。そうか、私がお父さんになればいいのか。)

 

もしお父さんだったらこの状況で何をするのだろうか、と考えた。とっさに外に出てホウキとちりとりを探したらいくつか壁に立て掛けてあった。

 

即座に持ち込みトカゲの死体をそっとホウキでちりとりに乗せる。驚いて散らばるアリに気付きながらも、大急ぎで中庭にそっとトカゲの死体を置いて冥福を祈った。

 

「お父さんモード」になると一瞬で物事を解決できる。長く生きている割にハイジモードがデフォルトな私は、お父さんに対する感謝の念が心の底から湧いているのを感じていた。

「褒める」「褒められる」の弊害

大人になればなるほど褒められる機会というのは減る。にも関わらず、ネガティヴなことを1回言われたとしたら、それを取り返すのにはポジティブなことを11回言われないといけないらしい。

 

そんなことを聴くとポジティブなことを言うのは良いことだと思いがちだ。実際にお互いにポジティブな言葉がけをして良い心の状態を保つことは絶好のコンディションを保つ上で役に立つ。

 

仮にポジティブに褒められた時をプラス100としよう。「こんなに褒められたんだから会社にとってもクライアントにとっても貢献度は高いはず!」と意気揚々と心弾むハイな日々を送るとする。

 

ただ、現実的に、普通に生きていてそんなにいつもいつも褒められることは無いだろう。環境がどんどん変わって新しいことを学び続けなければいけない中、むしろ改善点を指摘されることの方が圧倒的に多いのが世の常だ。

 

なのでネガティヴなフィードバックをもらった時をマイナス100と例える。「事実とはいえ心にグサッとくるし、一度こんな風に言われたら評判を取り戻すのは難しいだろう。もうダメ、オワッタ、シンダホウガマシ」と悲しい気持ちがエコーし、落ち込むことだろう。

 

前述のネガティヴ1件に対してポジティブ11件で相殺する説が正しいならば、褒められることの方が圧倒的に少ない人生では、普通に生きているだけでネガティヴキャンペーンを生きることが確定してしまうのだ。

 

なんと恐ろしいことだろう。こんな恐るべし地球に子供を生んで育てるなんて考えただけでもおぞましい、自分が生きているだけで精一杯だわ、と思うのもムリは無いと思えてしまう。

 

それでも私は生きている方が良いと思う。私もうまくいかない時の方が圧倒的に多いし、最近では信頼していた方に「自分の能力と努力が足りないと認めたらどうですか」と言われる始末だ。現場のフィードバックをそのまま伝えていたら、全てが私の「言い訳」に聴こえたらしい。

 

その方に褒められたい一心で頑張り続けていた私もさすがにショックを受けた。相変わらず最初の反応は「うわぁ、もう死んだも同然」だった。もう私など生きる価値など無いのではないか。

 

ただ、あまりにも落ち込む回数が多く、その度に毎回「死んだほうがマシ」と思い過ぎているせいだろうか。「とはいえそんな簡単に死なないし、むしろ長生きしよう!」とおきあがりこぼしのごとく前向きに思えるたくましい自分がいることに気が付いた。

 

落ち込んだ時にはたくさん寝る。そしてコーヒーを飲んでチョコレートを食べれば幸せになれる。そうしてフンフンと気分良く生きていると、タイミング良くアメリカ人の元上司から連絡が入った。シンガポールでアライアンスになって業務拡大のお手伝いをして欲しいという依頼だった。

 

人生、良いこともあれば悪いこともある。誰かに褒められることを頼りにしなくても、自分が気分良く生きていくための知恵さえあれば良しとしよう。

心と体に効く瞑想 <第六回> 〜純粋な慈愛〜

初めてミャンマーへ行ったのはもう10数年以上も前。中国人女性の友人と一緒にバックパッカーの旅に出た。仏教三大遺跡の一つ、バガンにある寺院を見て廻る為だ。

 

今でも忘れられないのはミャンマー人のふとした思いやりに満ちた行動だ。ランチでホーカーに立ち寄って私が暑さのあまり自分を手で扇ぐとスタッフがサッとうちわを手渡してくれる。蚊にかまれてかゆそうな仕草をすると即座に蚊取り線香を足元に置いてくれるのだ。

 

街中でバスに乗ろうとしていた時には流暢な日本語で話しかけられた。日系企業に勤めるという若いミャンマー人男性は、私達の行き先を確認するとバスの運転手に行き先を説明してくれた。その後笑顔で爽やかにその場を立ち去った。

 

そんなことからミャンマーの第一印象はすこぶる良い。加えて、ヴィパッサナー瞑想を学べるセンターも世界各地にあるけれど、ミャンマー人に紹介され発祥の地でもあるミャンマーで体験することにした。

 

この瞑想を通じて私達は何を得ようとしているのか。目的を端的に述べると、自分の心を見つめ、コントロールすることを学び、ネガティヴな感情といった不純物を取り除いて浄化するということだ。

 

座って瞑想をする時、廊下を挟んで真横にある貯水池では200羽を超える水鳥達が賑やかに鳴き声をあげている。本来なら瞑想に集中できればそんな音さえも集中力を増すのを助けるのだろう。たださすがに多過ぎた。

 

私はとうとうトイレットペーパーを丸めて細長くし、真ん中で2つにカットしたものを左右の耳に詰めた。髪の毛を束ねていたので歩道に映った自分の影を見ると一瞬髪留めのように見える。でも実際は耳から出ていると思うと我ながらウケた。

 

簡易の耳栓だったが、無いよりはずっとマシだった。座って瞑想する時だけでなく歩く時も食事中も耳栓をつけた状態でどんな変化が見受けられるか実験した。

 

やはり格段に集中力があがったし味や匂いにも繊細になった。10年前、五感を鍛えていっとき繊細になり過ぎた時があって、つい反応してしまって面倒なので鈍感でいる方がラクに感じていた時もあったが、今回は繊細になっても大丈夫という安心感があった。やはり「何のためにやっているのか」という理由は重要だ。

 

一緒に瞑想しているヨギ達は北米、欧州、アジア各国と世界中から集まっている。食事の時には担当の尼さんになんとなく席を指定される。新しいメンバーは空いているところに適当に座るからなんとなくという表現をしたのだが、レギュラーメンバーとはだいたい同じテーブルに座る。

 

いつも私の眼の前に座る女性は韓国の方だった。ひと言も言葉を交わさないのになぜわかるかというと、ウェットティッシューにハングル語が記載されていたからである。

 

中島美嘉によく似ている彼女はいつも目を閉じながら食事をする。一挙手一投足においてすっかりスローモーションが板についていて、しなやかで繊細な動きがとても美しい。

 

瞑想センターではカラダの線が現れるピタッとした洋服を着てはいけない。胸元も開いていてはいけないので鎖骨をカバーして、袖口も肘より下にくる白いシャツを着るのが原則だ。持参した緩めのTシャツはヨギ的にはNGだったので瞑想センターのオフィスでふさわしいブラウスを1枚4000ミャンマーチャット(約333円)で2枚購入した。

 

彼女の場合、華奢な二の腕の間には豊かな山脈が並んでいた。大きめのシャツを着ていても女性らしいラインがくっきりしていて女性の私もドキドキするほどだった。改めて自分のを確認すると豊か過ぎる二の腕の間にひっそりと丘が並んでいた。

 

思わず遠い目になりながら、かつて小学生の頃の私はゆっくりとお食事をしてとてもお上品だと褒められたのを思い出した。今となってはどうだろう。シンガポールの兵役訓練を受けている10代後半の男性と同じくらいの早食いスピードが認定されている。

 

今からでも遅くはない。これを機に彼女をロールモデルにしようと思った。彼女の動きをイメージしながら動いてみよう。そう思いながら食事を終えてテーブルを離れ食堂を立ち去ろうとした時、彼女はスッとオレンジ色の耳栓を私に差し出したのだ。

 

その後、彼女は何事も無かったかのように目を閉じて食事を続けた。私はその時ウルっときた。ヨギ達は五感と思考を鍛えて、いつでも周りの人に役立つ人間になろうとしているのだ。

 

言葉も交わしたことがなくお互いに名前だって知らない。でも困っている人がいたらそれに気付き、スッと手を差し伸べられる。そんな純粋な慈愛に満ちたヨギ達に囲まれて自分の「ありたいあり方」を日々問うきっかけを与えられた。