通訳のお仕事はAIに乗っ取られるのか

昨今、人工知能の発達によって将来消えるお仕事はなんぞやという議論がよくなされる。

 


私自身、通訳をしているためこの話題が出る度、身につまされる。

 


最近は自ら「通訳って斜陽産業なんですよね~」と説明することも多い。

 


実際、機械学習を味方につけた機械翻訳の勢いはとどまることを知らない。

 


気軽に低価格で持ち運べるデバイスもあれば、スマホのアプリで対応できるものも多々ある。

 


音声を元に自動翻訳をするだけでなく、文字起こしできる機能が至る所で見受けられるようになった。

 


私もリアルに現場で(もはや機械に自分の仕事を奪われるのではないか)と危惧する経験を何度もしている。

 


ただ次の瞬間、それは杞憂であることがわかった。なぜなら大画面に映し出された文字起こし字幕は話し手の内容とは全く異なっていたからだ。

 


それどころか複数ある大画面に表れた文字、それはあろうことか「男性にあって女性に無いもの」であった。しかもその言葉の出現は一度限りでは無く、連発された。

 


私は内心ほくそ笑んだ。しばらく通訳のお仕事がとって無くなることはない気がしたからだ。

 


偶然、この体験を機械学習のプロに説明する機会を得た。すると彼は「ライバル社の陰謀かも知れませんね」と冗談を言いながら笑っていた。

 


とはいえ、これが時間の問題だというのも重々承知している。デジタル変革は指数関数的に加速度を増しているではないか。

 


となると、通訳を生業として生きている我々はどう生きていくべきなのか。

 


まず、どんな職種においても生き残れるのは上位5パーセントだと言われている。

 


大げさに聞こえるかもしれないがあながち誇張とも思えず、生き残りをかけるのであれば、通訳としての力量以外に、コミュニケーション能力や得意とする分野の専門知識は必須だろう。

 


それ以外に個人の成長戦略として、顧客の問題を解決できるよう付加価値を与えられる立場にいなければいけないと常々思う。

 


そのために必要なのは、情熱、知識、スキル、人脈ではないだろうか。

 


加えてより一層貢献できるよう「最善の時と場所で最善の人となる」というのをモットーに掲げている。

 


おかげさまで今は通訳以外のお仕事も受注させて頂いているが、ついこの間、通訳をする上で再び情熱に火を点けられる経験をした。

 


それは、偶然ユーチューブの動画である人物に出逢ったことによるものだ。

 


彼の名は知る人ぞ知る、秋山燿平氏。彼は10ヶ国語を自在に操りマスコミでも多く取り上げられている。

 


東大薬学部に進学した彼は唯一無二の存在になるため、10ヶ国語をマスター、結果として大学を中退するがユーチューブの登録者数は12万7千人を誇っている。

 


特に私が感動したのは彼が中国語で中国の学生に講義をしている動画を観た時だった。この動画の再生回数はなんと55万回を越えていた。

 


それだけでもすごいのに、さらに彼の言葉に感動したので動画の字幕を引用させて頂く。

 


「これは私がよく使う言葉です。もし英語で話したら、あなたの言葉は耳にしか届かない。でも相手の母国語で話したら、その言葉は相手の心にまで響く。相手の母国語で話すことで、始めて心を通い合わせることができる。だから私はいつも意図的に相手の母国語で話すようにしています。」

 


私は心の中で彼の言葉を反芻した。正直、通訳として自分の将来ばかり案じていた自分を恥じた。同時に、彼の言葉によって小さい頃に抱いていた想いを思い出させてもらったため、荒んだ心に火を点けられた瞬間となったのだ。

 


「大企業で働いてきたのに(それを辞めて)、なぜ今、(わざわざ)通訳をしているんですか?」という質問を受ける度、「小学校の卒業文集の将来の夢に通訳になると書いていたんです。」と答えるようにしている。

 


すると「なるほど、本来の理想に戻ったんですね。」と納得してもらいやすい。

 


とはいえ、もともと「英語を話せるようになって世界中の人と繋がりたい」という想いで夢を描いていたにも関わらず、通訳がいつのまにか日常のお仕事になりつつあった今、秋山耀平氏のおかげで埋もれていた情熱を奮い立たされた気がした。

 


シンガポールに来て早20年、「英語以外に何が話せますか?」と訊かれる度に俯いていたけれど、2020年こそはずっと先延ばしにしていた中国語をマスターし、通訳ができるレベルに引き上げるという目標を掲げようと思う。

 


目の前の人達と彼らの母国語で心を通い合わせる時間を大切にできれば、それほど幸せなことは無いのではないか。期せずして彼らとの向き合い方を問い直す良い機会になったことは間違いない。

今年最大の断捨離をして感じたこと

今年も大変お世話になりました。来年もよろしくお願い申し上げます。

 


本来この手の挨拶は日本人であれば最後に持ってくるのが一般的かもしれない。

 


でも今の私の心境から、英語圏に住んでいることもあって、大事なことは真っ先に言う習慣を持ち続けたいと思っているので、それを実践したい。

 


年の瀬になるとゆく年来る年を思いいろんな思いが込み上げてくる。ブログを更新しよう、しようと思いながらあっという間に12月になってしまった。

 


特に通訳のお仕事というのはどちらかがお休みになると、もう片方もお休みになる性質のものであるからして、日本の年末年始から旧正月まで若干ヒマを持て余してしまう。

 


だから自ずと振り返りがちな中、本当に様々なことがあって何から書いて良いかわからないのだけれど、まずは直近に起きた出来事から書いてみたい。

 


私は毎年同じことも少しずつ違う角度から見よう、新たなことに取り組もうという姿勢を持ち続けるようにしている。

 


それはつまり単に自分が飽き性だということもあるが、生きている以上進化し続けなければいけないという熱苦しい思いが強いからだ。

 


それと同時に少しでも違和感を感じたことはどんどん切り捨てるようにしているのだが、今年、一番収穫のあった断捨離は「お誕生日」を捨てたことだった。

 


実は毎年お誕生日になるとメッセンジャーがパンクしていた。ありがたいことに200-300通ほどのメッセージを頂いていたからだ。

 


にも関わらず、私はお返事を書きます、書きますと言いながら書くことがままならないまま年を越え、気が付くと「お誕生日」イコール「不義理な人になる日」みたいになってしまった。

 


すると毎年どんどん罪悪感が増していく。今年私は戦々恐々としながら自分がどれほどの不義理を行なっているか、こっそりメッセンジャーを遡った。

 


なんと!最も古い未読のお誕生日メッセージは、元同僚から送られた2007年のものではないか。私がフェイスブックを開設した当初の時代まで辿ってしまったのである。

 


時が去ること12年、こ、これは人としてヤバイのではないか、これ以外の言葉で表現できるのであれば、誰か教えて欲しい。

 


そんなわけで私は考えた。どうするのが良いのか。そこでふと名案が浮かんだのは「フェイスブックのお誕生日を非公開にする」というものだった。

 


非公開にした理由はもう1つある。もういい歳なので歳はとりたくない、お祝いも自粛したいという思いがあるからだ。

 


いつも「フォーエバー21だから」とベタな表現をしてうっすら笑いをとりにいっていたら、この会社は破産したらしくもうこのネタも使えないとなると充分追い詰められた気がした。

 


となれば私のお誕生日をお祝いする方が少なければ少ないほど、マイナスされて若返るのではないか、という思い込みを信じることにしたい。

 


もうこの際、いっそのこと、世界的にメジャーなイベントであるクリスマスと統合して紛れてしまうのが得策な気がしてくる。

 


直感に従ったのが功を成し、ありがたいことに今年はお返事できる数のメッセージを頂くに留まった。

 

ただ当日オフラインでお会いした方にはわざわざ自分から「言いにくいんですけど、私、実は今日お誕生日なんです。」とお伝えし、暖かいお言葉やお歌を頂戴した。

 


ここから得た教訓は何事も自分の手に負える範囲で取り組まないといけないということだった。

 


オンラインを活用するのはとても良い事だしステキだけれど、うっかりキャパ越えしがちだ。来年こそは地に足をつけながらも、仲間の力を借りてできることを増やし、活動の場を地球全体に広げていきたいと切に願う。

 


改めまして、今年出会って下さった皆々様方、引き続きお世話になった方々、本当にありがとうございました。出会った方々皆様のご多幸、ご成功、ご活躍を祈って止みません。

 


特にお誕生日メッセージを送って下さった方々には神様からのご加護並びに宇宙全体からの祝福がこれからも降り注ぎ続けますよう全力でお祈りします。

 

女性の「強さ」と「弱さ」について

東大入学式の祝辞が大変大きな話題となったのは記憶に新しい。

 


私もこれを読んで同じ女性としてうなづける部分も多くあった。

 


それと同時に、どうしても違和感を感じずにはいられない文章があって全体として納得がいかない内容となってしまった。

 


「違和感」を生み出したのは以下の部分である。

 


「女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。

フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」

 


(えっ?女性って弱者だったの?!)

 


私はとても驚いた。私は正直に言って、女性が弱者だと感じたことが無かったからだ。

 


いや、冷静に考えて一度とは言わず何度かはあったに違いない、でももう覚えていないということは、それくらい些細なことだったのではないかということだ。

 


私が女性を弱者と思わない理由の1つとして、小学1年生から大学卒業まで女子校育ちだったからということは考え得る。

 


競技大会の種目もサッカーだったので、観るというよりプレイするものという意識もあった。

 


ただ、それはどちらかというと表面的なところで、もっと私の奥深いところで、絶対的な信念のようなものが根付いていることに気が付いた。

 


「女性は強い、絶対的に」

 


なんなんだ、この揺るがない、根拠のない自信は。

 


私は自問自答し、自分史を思い起こし「きっかけ」を探した。

 


すると!あるメロディーとともに歌詞が浮かび上がってきた。

 


それは明石家さんま氏が軽快に歌う「真っ赤なウソ」という歌の歌詞である。

 


それはまさに昭和のバブルを象徴する歌で、作詞作曲は、あの、高見沢俊彦氏によるものだった。

 


サビに当たる部分を引用すると以下の通り。

 


「真赤なウソを重ねながら

純愛・不倫をくり返す

男と女はそんなもの所詮ひとりじゃいられない

どんなに男が偉くても

女の乳房にゃかなわない

…真赤なウソ!」

 


高見沢俊彦氏の大ファンである私はこの歌詞にかなりの衝撃を受けた。

 


まだ初恋も知らない、うら若き少女だった私だったが、このシンプルでどストレートな歌詞から事情を読み取った。

 


「どんなに男が偉くても

女の乳房にゃかなわない」

 


特にこの部分は脳裏にしっかり焼きついて潜在意識に刷り込まれたようで、私はそれ以来「どんな時も胸を張って生きていける」と確信を得たのである。

 


そんな強気の私だが、最近になって思わぬ弱点があることに気付いた。

 


それは米国の大学による歯科睡眠医療における講義の同時通訳をするため、関連用語の予習をしていた時だった。

 


日本のとある歯科医院が口内について説明する動画を観ていた時だった。

 


女性のナレーターは落ち着き払った様子でこう言った。

 


「『口蓋垂』、これは『のどち○こ」と呼ばれているものです。」

 


(なんと!)

 


私は目を丸くした。私もCMの声優やミュージアムの日本語ガイドとしてナレーターを務めたこともある。

 


なので、台本があったらその通りに読まなければいけない、これが職業人としていかに大切なことか、重々承知だ。

 


きちんと台本に従って「のどち○こ」と動揺する素振りを声に乗せず、淡々と朗読したナレーターさんに対して敬意の念がわいた。

 


でも、しかしである。「のどち○こ」とは、この日本語はいったいぜんたいどういうことだろうか。

 


「の・どち○こ」でもなく「のどち○・こ」でもなく、分解すると「のど」と「ち○こ」ではないか。

 


(あ、あ、ありえない。。。)

 


万が一私が、同時通訳の最中、とっさに「口蓋垂」という単語を忘れ、うっかり「のどち○こ」と言ってしまった時のことを考えると。。。

 


(ギャァ~。。。)

 


想像するだけで恥ずかしくて震えが止まらない。私が万が一そんな言葉を口にするやいなや、かつて流行ったアニメ「おぼっちゃまくん」認定されるのではないか。

 


私が発したその言葉のせいで、同時通訳を聴いている方の集中力は途切れてしまい、受講の妨げになってしまうことは大いにあり得る。

 


(これを命名した人は、セクハラをしていることに気がつかなかったのか。)

 


私は未だかつてないほどに落胆し、悲しみに暮れ、その後怒りで身体中が赤くなった。

 


(私は弱者ではない)

 


怒っても仕方が無いので、冷静に対処方を考える。

 


そういえば、英語で「Oh My God!」は、神様に敬意を示すことから「Oh My Gosh!」と言い換えられる。

 


であれば、あの方の力を借りるのはどうか。

 


そう、それは、チンアナゴ。

 


「のどち○こ」の代わりに、「のどチンアナゴ」と言ってみるのはどうだろう。

 


「『口蓋垂』、これは『のどチンアナゴ』と呼ばれているものです。」

 


なかなか、かわいらしいではないか。我ながら名案、フンフンする。

 


この応用として「おぼっちゃまくん」の「ともだち○こ」も「ともだチンアナゴ」にしてはどうだろう。

 


チンアナゴがペアーでベロベロしている様子を思い浮かべる。

 


(うふ、ステキ♡)

 


急にチンアナゴが愛おしくなった私は、画像を検索する。

 


(うわっ!チンアナゴって、思ったより長い。。。)

 


「のどチンアナゴ」。。。こんな長いものが喉にあったら、10秒以下の無呼吸が続く睡眠時無呼吸症候群どころか、それがそこにあった時点で窒息するだろう。

 


(う~ん、のどチンアナゴは実用性に欠ける。。。)

 


これに代わる名前を考えなければいけない。

 


改めてウィキペディアで「のどち○こ」について調べると、海外では「ぶどう」に例えられているとのこと。

 


なるほど!確かにぶらさがるぶどうっぽい。さすが、ワインのぶどう園を連想させてなんかオシャレ。

 


我々日本人もこれを踏襲して「のどち○こ」改め「のどぶどう」に変えてはいかがだろうか。

 

 

皆様におかれましてはこの改名を緊急かつ重要な課題として真摯に受け止めて頂きたい。

 


「平成」が終わり「令和」を迎えた私達。「ヴ」も消え、お札も新しくなろうとしている今、そろそろ日本語にも国際基準を当てはめる時が来ているのではないだろうか。

 

憧れて止まない最強カップルについて

ある記事によると、アラフォー女子にとって婚活は非常に難しいらしい。

 


同年代を「おじさん」と思うかもしれないけれど、自分も「おばさん」であることに気付かなければいけないそうだ。

 


職場で年下男性に褒められて「私まだいける」と思っても、それはお世辞だから真に受けてはいけないらしい。

 


つまり「私はまだいける」と思っているのは「自分だけ」ということか。

 

 

 

(どんだけお節介やねん)

 

 

 

心の中でそんなツッコミを入れながらウケたと同時に衝撃も受けた。

 

 

 

「私はまだいける」

 

 

 

そんな風に自分に言い聞かせ、自信を持つことは生涯にわたって重要なことなのではないか。

 


そんな時、ふと弟と妹の発言が思い返された。

 


20年ほど前、海外で羽根を伸ばしまくる私に、弟は言った。

 

 

 

「あまり調子に乗らないように。」

 

 

 

10年ほど前、若作りばかりに気合いを入れ、自由な発言の多い私に、妹は言った。

 

 

 

「おねえはもう女子じゃない。」

 

 

 

しっかりと核心を突いてくる。時を越えても心に響く名言の数々。

 


家族とは本当の事を言う為に存在するのでは無いかとすら思えてくる。

 


やはりこの記事を自分に都合の良いように一部を拡大解釈するのではなく、冷静に読み解くとしよう。

 


ふむふむ、要するに自意識や自信も持ち過ぎるのではなく「身の丈を知れ」と。

 

 

 

う~ん、「身の丈」って何?

 

 

 

「身」が既に「モンスター」のように「規格外」の私はどうしたら良いのか、もっと悩む。

 


しかも「結婚」ってつまるところ「契約書に署名」することだから「法的リスクを負う」ということですよね?!

 

 

 

(結婚=法律、怖い~、ガタガタブルブル)

 

 

 

私は恐怖に怯えた。昔から法律が怖い。なぜかわからないけれど怖い、というか、わかりづらいから怖い。

 


その恐怖を掘り下げて「結婚」を言語化すると以下の通りではないかと思われる。

 


「私個人のみならず配偶者と共に、将来起きる可能性のある未知のリスクにより発生した、またはそれを含むがそれに限らない、いかなる責任をも負う覚悟を持ち、連名で契約書に署名をする。」

 

 

 

うわぁ〜、言語化するとより恐ろしさが増す。

 

 

 

まさにこの上記に明確に記述された行為に対する恐怖が強過ぎるがゆえに、現状それを越える愛を持ち得ない私は結婚できないのではないか。

 


そういえば!私が最近憧れて止まない最強カップルを思い出した。

 


それは「たかす~、ク~リニック!」でお馴染みの高須克弥氏と西原理恵子氏である。

 


なんと70歳と50歳と20歳の年の差で戸籍を入れない「事実婚」なのだそうだ。

 


もともと高須氏が西原氏の大ファンで、ファンレターや脂肪吸引ビジネス200万円の会員権を送ったらしい。

 


最初、友人関係が続いていたが、それぞれの配偶者が死別した為、恋人関係になったそうだ。

 

 

お二人は文字通り「愛だけでつながる関係」を貫きながら、年々輝きを増している。

 


高須氏は最近全身ガンを公表されたが、あふれんばかりの愛でとても元気そうに見える。

 


愛される秘訣を学ぶべく観た西原氏の「最後の授業」がこれまた感動モノで、高須氏の心を掴んで離さない理由がわかったようで納得がいった。

 


さらに高須氏は西原氏のことを「熊」と呼んでいる。かわいいテディベアかと思いきや、事例の逸話が激しいことからもそうでは無いことは明白だ。

 


このお互いをネタにして全てを笑いに変えていくところとかも理想的でキュンとなる。

 

 

高須氏が留守中のホテルでお寿司やワインや蟹を頼む西原氏を「遠慮がない」から熊と思えばしょうがないと思えるらしくその表現からも愛が伝わってくる。

 


とはいえ一緒にいるとケンカもするから、週に2回だけ会うようにしているらしい。この距離感もちょうどいい感じなのだろう。

 


良いなぁ~、本当に素敵だなぁ~、と心底憧れるカップルである。天命を生きている同士が一緒にいると周りの人達にインスピレーションを与え続けるのだろう。二人がどうかいつまでも幸せでありますように!

アラフォー女性が憧れるセクシーさについて

人生について真剣に考え過ぎて病気になったので、お口直しのごとく思いっきり軽い話題について語ってみる。

 


病み上がりで3キロ痩せたことを喜ぶ事態が病んでいるのだが、痩せたことに何ら変わりはないのであって喜ぶしかない。

 


痩せると急に夢が広がる。太っていた私にはできなかったあんなこともこんなこともできる気がする。

 


根拠の無い自己肯定感満載な状態で妄想が拡大する。

 


そんなある日、いつも目にするサイトの下にふと武田久美子氏の画像を見つけた。

 


(最近どうしているのだろう)

 


広告のようだけれど、その画像はあえて踏まずに、検索してみた。

 


すると芸能人・有名人ブログにおいてママ部門第5位と相変わらず人気の高さが伺いしれる。

 


(うわぁ、きれい!変わっていない!)

 


しかも私が彼女についてよく記憶しているのは美し過ぎる妊婦ヌード。随分前の話である。

 


タイムスリップしたかのようにその時、お腹の中にいらしたお嬢様は、随分立派に成長されてこれまたティーンエージャーらしい美しさを放っている。

 


ウィキペディアによると武田久美子氏は50歳。奇跡の美しさというほかないだろう。

 


私もただ無駄に太るのではなく努力をしなければ。そうだ、武田久美子氏のように。

 


というわけで、2019年、まずやってみたいことは、胸にホタテ貝の貝殻をあてがうことである。

 


さすがに直接当てるのは諸事情を鑑みてあれなので、ビキニの上からのせてみたい。

 


ただビキニを素肌の上にのせるのも、私の宗教上ではなく周りのそれによりちょっと思うところがあるので肌色かそれに準ずる何かしらの衣服の上にのせるものとする。

 


さらに下半身の真ん中にホタテ貝の貝殻というにも、連想ゲームがすご過ぎるわけで、ここは人魚姫になろう、そうだ、もう一択でそれしか無い。

 


せっかく人魚姫になるのに髪の毛がほぼ黒に近い茶色というのはどうだろう。やるならオレンジ色にしないとポセイドンから許可はおりないのではないか。

 


さらに人魚姫だけだと寂しさが募るので、王子様も連れて来なければいけない。

 


人魚姫のマーメイドに対して男性はマーマンと呼ばれる。男性も胸や下半身の真ん中にホタテ貝の貝殻を乗せるのだろうか。

 


結論、乗せたければ乗せれば良いと思う。ただ、個人的にあまりに毛深い場合には抜いて頂きたい。

 


ホタテ貝の下に毛があると海藻と間違えてしまう恐れがあるではないか。そんな海藻のような毛ならいっそのこと抜いた方が美しさも増す気がする。

 


男性の人魚というのは認知度が低い分、まだまだ伸びしろがある。やりたい放題である。既成概念が無ければ作ってしまえば良い。そういう点においては非常にうらやましい。

 


2019年、薄々感じてはいるもののそろそろ人間という枠すら越えてもっと自由にもっと自分らしく羽ばたける人が増えることを祈念する。

人生において最も避けなければいけない態度について

やっと風邪が治った。今回のはやたらしぶとかった。鼻水やのどの痛みはさほどでもなく、咳もクシャミもチラッとしか出なかった。

 


にも関わらず、時折、後頭部に脈を打つかのように激しい痛みが走った。健康診断でも問題無く、半年後に行った念には念を入れた再検査も問題無かった。

 


でも、よく聴く突発的な脳内出血だったらどうしようと恐れていた。やっと思い出したかのように熱を測ったら37.8度というこれまた微妙な感じの結果が出た。

 


胃も痛くなる時があった。お誕生日週間だったので楽しいことで満載になるはずだったのにことごとくキャンセルをせざるを得なかった。

 


結果、私は薬を飲んでは汗をかきまくり、ベッドの上でのたうちまわり、薬を飲むためだけに胃に食べ物を入れるのを繰り返すうちに一週間が過ぎた。

 


最初と最後の方は合間にお仕事もしたり、チラッと観光案内もしたけれど、大半はベッドの上にいた。

 


なんとか市販の風邪用パナドールで乗り切ったが、今思うとこれはシンガポールでよく聴く「ストマックフルー」ではないかと感じた。覚えていたら今度お友達に訊いてみようと思う。

 


病気になったのは集団でお仕事をしている中で菌をもらい、私の免疫が下がっていたから発症したというのはわかっている。

 


ただ私は滅多なことでは病気にならない。複数の病院で通訳のお仕事をすることもあるので、患者として行ってしまうと皆んなが混乱すると思うとますます行けない。

 


だから私は自分に対して「決して病気にかかってはいけない」と常日頃言い聞かせているし、病気になっても薬局の薬を飲むに止める。

 


それではなぜ、私はこの微妙な感じの不思議な風邪とおぼしき病気になったのか。

 


実は心当たりがあったのだ。私は最近、朝目覚めて、夜寝る前、ものすごく幸せを感じていた。

 


「至福感」というのはこういうことだろう、と気が付いた。太陽と共に静かに目覚めて眠りにつく。

 


ミャンマーで10日間の瞑想がしたくてしたくてたまらない私に、瞑想仲間が教えてくれた。瞑想道場に行けなくても家で瞑想をしたら良いよと。

 


それ以来、シンガポールの家にいる時には常に瞑想をしているかのような心持ちで過ごす事にした。結果、良い心の状態を保つことができるようになったのだ。

 


でも人間、そう簡単にはできていない。心の平安が訪れたのも束の間、次に私に押し寄せたのは、またもや厄介な心の持ちようだった。

 


それこそが「飽きる」という気持ちだった。

 


これは本当に達が悪い。私はこれこそが「人生で最も避けなければいけない態度」だと感じる。

 


人間は感じたい感情を得るために生きている。何年もかけて「至福感」を手に入れた私を襲ったのは、その平穏な日々に「飽きる」というオチ。文字通り「なんでやねん」である。関西人にだけ起きる現象なのか。

 


人は生きている実感を味わいたくて「快楽」を追求し、心に刺激を求めるのだそうだ。

 


ただそちら方面も、例えばスキューバダイビング、バンジージャンプ、スカイダイビングなどなどもう十分すぎるほどやってきた。

 


他にも相当数の行動量でありとあらゆることに取り組んできたし、もっというと、私は完全成果報酬で生きているので、日々がチャレンジングそのものである。

 


「飽きる」ことは「怠惰」つまり「死」を意味する。私は途端に降ってわいた焦りの中「飽きる」ことに対する対処法を見出さなければとの思いで必死だった。

 


諸々考えた結果、ふと「飽きない=商い」からの斎藤一人さんを思い出した。

 


かなり久しぶりに斎藤一人さんの音声をひたすら聴く。以前はよくわからなかったことでも腑に落ちることが増えてきて驚いた。

 


特に商人として学ばせて頂けるとところはたくさんあった。中でも「愛、光、忍耐」という言葉には目からウロコだった。

 


「飽きる」の逆は「忍耐」ではないか。「自由」を生き過ぎていた私は「忍耐」について瞑想を始めた。

 


「忍耐」かなり嫌いな言葉だった。「忍耐」という盾を借りて、行動を起こす代わりに自分が向き合いたく無い「恐れ」から逃げているだけなのでは無いか。

 


マーライオンになりそうな胸○○悪い感じを思いっきり味わった結果、物の見事に病気になった。わかりやす過ぎて笑えてしまった。

 


ただ、このタイミングでこれに気が付けたことは良かったことだ。これからますます思い通りに動かなくなるこの体に付き合いながらなんとか生きながらえるには相当な「忍耐」が必要だ。

 


お陰で体重は3キロ落ち「忍耐」という言葉を見ても吐き気もしなくなってきた。少しは「忍耐」を克服できた気がする。

 


それからふと気が付くとこれまで許しがたく感じていた人達のことを思い起こしてみたら、いつのまにか「許せる」に変わっていることに気が付いた。

 


「忍耐」というチャンネルには、思いの外、暖かい「慈愛」に包まれた光景が広がっていた。これからもどんどんチャンネルを増やし、許容範囲を広げていきたい。

「なぜ人は結婚をするのか」という問いについて

ここ最近、私は「婚活」そのものより「結婚とは」という問いかけに対する答えを哲学的に追い求めることにすっかりハマっている。

 


実はリアルに周りでは既に結婚からエグジットあるいはエグジットしかけの方がかなり多いのである。

 


そのため私は結婚をかなり冷静な目で見ている上、正直かなりの恐怖心も抱いている。

 


それでもなぜ人は結婚するのか。知恵の限りを尽くして客観的に想像してみた。

 


仮に今「アラフォーの女性が結婚した」というニュースが飛び込んできたらどんな気持ちになるだろうか。

 


例えば中谷美紀氏が結婚したら。他人事とは思えずさぞかし嬉しいに違いない。

 


とつい先日思っていた矢先、なんと本当にご結婚されたというニュースが飛び込んできた。

 


いつも恋バナで盛り上がるコーチ仲間が教えてくれたというのもあって余計に盛り上がった。

 


なんというかホッとした。本当に良かったなぁと安堵の気持ちに包まれた。

 


そう、やっぱりこれ。結婚は周りの人をこういう気持ちにさせるためにするのではないか、と思った。

 


中谷美紀氏のお相手はウィーンのビオラ奏者。絵に描いたような美男美女が並ぶ。

 


おかげでビオラの認知度があがり「大きなバイオリン」と言われなくなる、というネット民の反応にもウケた。

 


私も学生時代から渡部篤郎氏と共に彼女のファンだったので、二人のドラマの結末がわかったような嬉しさもある。

 


こんなに嬉しいと思えるという事は、私のどこかでまだ結婚したいという願望があるのだろうか。

 


世界共通して言えることだが、どこにいても初対面の方には家族がいるかどうか聞かれる。

 


正直に「独身です」と答えるとものすごく驚かれる。そして理由もきかれるのだが、都度リアクションを変えてきた。

 


最近は「私は自分と結婚したから」と答えるようにしている。

 


すると結構な割合でウケてもらえる。相手に余計な気を遣わせずに済むのでしばらくはこれでいこうと思う。

 


そんな中、友人が私に紹介したい人がいるという。その方はイベント会社を営んでいるそうだ。

 


酔いながらも長い英語の長文を読む。そのイベントはなんとウィーンに関するものだと言うではないか。

 


(おぉぉ~!私にもチャンス到来?!)

 


と心を躍らせたのもつかの間、翌朝、よくよく読んでみると、「ウィーン少年合唱団」だった。

 


写真を見ると、なんとまあかわいらしい、ピュアな笑顔にすっかり心が浄化された。

 


そこにはニッポン男児も参加される予定らしい。

 


引き寄せた事柄を見れば自分が潜在意識下で何を考えているのかすぐにわかる。

 


私のモードは「恋愛」から「人類愛」へと着々とシフトしているらしい。

 


それも世のため人のためになっているのなら良いのかなぁと鷹揚に構えられるようになった。

 


来年こそは久々にウィーン少年合唱団のコンサートに行って清らかな歌声でさらなる浄化を目指したい。