完全マニュアル「ウツ病の作り方」

自分の人生には何度も危機が訪れているけれど自分史上最大のが来たので記録に残したい。

 

なんと!まさかの「ウツ病」らしきものにかかった。というかかかっていたことに気付いたのか、厳密にはよくわからない。

 

タイトルに「ウツ病の作り方」と書いたがいずれにせよウツ病など誰も作りたいと思って作っているわけではないだろう。

 

正しく伝えるとしたら「作られ方」なのかもしれない。それでもあえて「作り方」と書くことで客観性を持たせて手放しが加速するように努めたい。

 

自分の体験からわかったことを順序立てて書くと以下の通り。

 

(1) 強烈な心的トラウマの発生
(2) (1)を呼び起こすきっかけも生じる
(3) 上記(2)のトリガーとなる出来事が起きる
(4) 自覚症状が無いまま(1)-(3)が繰り返される
(5) ある時限界点を越え体調不良となる
(6) 苦しみのあまり消えてしまいたくなる

 

ここに書くとサラッとしているけれど、このサイクルがわかるのに実に約10年以上を要した。

 

私は今でも「請求書の発行」と「正社員」というのが恐ろしく苦手だ。

 

フリーランスになってお仕事を終えても一向に請求書を発行しない私は「ゆみさんはお金持ちに違いない、とみんな言ってますよ」と噂されるほどだった。

 

現状は全く逆で貧乏の極みに違いなく「キャッシュイズキング」「お金こそ全て」な状況であるにも関わらずである。

 

それが最近になって私は気付かないうちに自分が最も苦手とする「正社員」でかつ「請求書発行担当」になっていた。

 

自分では苦手意識を持ちつつも、他の人は難なくこなせることであるのは明白で、実際に請求書発行などものの10分で作成できる。

 

自分にだって充分乗り越えられると思っていたのだが、1年以上が過ぎた今、そこに体調不良も加わり、とうとうあまりの苦しさに根をあげてしまった。

 

これは自分でも尋常ではない気がする。なぜこんなにもカラダ全体で苦しみを感じるのか。

 

冷静に振り返ってみると、それはさかのぼること10年以上前になる。私が正社員として営業事務のお仕事をしていた時のことだった。

 

主な業務内容は請求書の発行で、日本からの業務移管プロジェクトで部署に日本人は私一人だったためとてつもない責任を感じていた。

 

新しい職場環境にも慣れてきた頃、母が末期ガンだと知らされた。青天の霹靂とはこの事をいうのかとショックを受けた。

 

試雇用期間を終えてなんとか有休をもらって入院中の母を訪ねたもののパソコンを持ち込みずっと仕事のことも気掛かりだった。

 

これだとどっちつかずになる。退社して日本に帰った方が良いのではないかなどと考えている間に母は亡くなった。

 

朝から夜中まで請求書発行に明け暮れ、母をどうしたら救えるだろうと考えながらパソコンに向かっていた毎日。

 

正社員として入社する前に少しブランクがあったのでその時に母の容態がわかっていれば、または今、正社員でなければ日本に帰りやすかったかもしれないなどと考えた。

 

何度も国際電話をして対策を論じた。でも結局何の役にも立てず死に目にも会えなかった。自分のことを親不孝だと責めた。

 

生前、母は明るい服を着てオシャレをするのが大好きだったので私も少しでもマネてせめて母と一緒にいる気持ちになりたかった。

 

すると「どうしてお母さんが亡くなったばかりなのにあんな明るい服ばかり着ているのか理解できない」と言っている日本人の同僚がいるというのを耳にしたりもした。

 

もう踏んだり蹴ったりとはこのことである。故人を偲ぶ方法は人それぞれなので、ディズニーランドへ行こうがハワイに行こうがソッとしておいてあげるべきなのだ。

 

それからありとあらゆる手段でグリーフケアーを試み心が癒されるよう努力してきたので、まさかここへきてこんな発見があるとは思わなかった。

 

自分にとって「正社員」や「請求書発行」がトリガーとなって都度「母の死」からくる苦しみを全身で感じていたとは。

 

こうしたサイクルに気が付けずに、いや気が付けたとしても、習慣化されたこのパターンから抜け出るのは難しいかもしれない。

 

でも客観性を持つだけでもう抜け出せたも同然であるということに気が付いて欲しい想いで、まだ少しある頭痛と戦いながら一気に書いてみた。