占い師になったら2年連続で行列ができた

ものごころがついてからというもの無性に星占いに心が奪われた。単なる占いというより西洋占星術という学問のような感覚も否めない。

 

とはいえ星座は12種類。だんだんそれには飽きたらず「占い」と呼ばれるものは何から何まで片っ端から取り組むようになった。

 

中でもタロットカードはおもしろかった。大アルカナと呼ばれるものでも22枚。逆さまになったカードも占えるのでさらにその倍はある。

 

そしてカードのスプレッド方法も多岐にわたるので掛け算すると途方もない数のパターンが繰り広げられる。

 

しかも独学でコソ練ができ、自分に関して言えば占いの結果で仮説検証サイクルが成り立つ。「タロットは自分を占えない」という諸説もあるが、それはさておき、お友達などを占ううちに当たると評判になった。

 

そこでせっかくなので、趣味と実益、さらに思い出作りを兼ねて年に一度行われる学祭で出店することにした。

 

仲良しのお友達と役割分担をし、1人はフリーマーケット、もう1人は手相占い、私はタロットカードを担当した。

 

神戸女学院大学で行われる学祭は「岡田山祭」と呼ばれる。それは学校が岡田山にあるからである。

 

そこで「新宿の母」になぞらえて私は自分自身を「岡田山の母」と命名した。「貫禄ある母役」を演出するため、ショートヘアにパーマ、メガネをかけた。

 

当然、それだけではもの足りない。関西のオバちゃんの代名詞といえばヒョウ柄。母のワードローブから、黒地にちょっとかわいらしめのヒョウがたくさん描かれた服を借りた。

 

もともとランドセルを背負っているのにクレジットカードの申込書を配られるくらい老け顔だった私は「本当に学生ですか?!」と驚かれた。

 

長年の悩みであった「老け顔」でようやく人さまのお役に立てる機会を持てるようになったことを心底嬉しく思いながら、数々のお客様の占いをこなしていった。

 

近隣の大学から来られる方も多く、2年連続して来てくださるリピーターまで現れた。「他に行く所、無いし」とぶっきらぼうに言う男子学生にさえも感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

学祭で2年連続行った催しは長蛇の列をなし、無事、成功裏に終わった。すごく達成感があったので、バイト先やダイビング仲間との集まりなどありとあらゆる場所にタロットカードを持ち込んで占いまくった。

 

ところが今となってはどうだろう。そんなにハマったタロットカードなのに、一切手を付けていない。どころか、私はタロットカードをオススメしない。

 

占いは遊びとしてはおもしろい。でもある時、タロットカードによる弊害も目の当たりにしてしまったのだ。

 

気を付けなくてはいけないのは、タロットカードには「悪魔」や「死神」が入っている、という点だ。

 

タロットカードにハマり、自分を占ううちにひたすら連続で「悪魔」や「死神」を正位置でひくようになってしまう。

 

占う前にタロットカードをしっかりシャッフルするので、毎回、違うカードが選ばれるはずなのに、なぜなのか。

 

「そこがタロットカードの不思議さであり、おもしろさ、醍醐味なのよ〜」と割り切れれば良いのだろう。でも、自分がネガティブな感情で落ち込んでいる時はどうだろう。

 

自分は「悪魔」や「死神」に取り憑かれているのではないか。にわかには信じがたいが、そんな感覚に陥り、結果、統合失調症のように精神を病んでしまったケースも実際にあるのだ。

 

よく切れる包丁でおいしい料理をつくる人もいれば、人を殺める道具に使う人もいる。何事も受けとめ方や使い方次第ではある。

 

では、そもそも人を占う占い師さんご自身は幸せなのだろうか。幸せな人もさほど幸せでない人も両方いるだろう。長年、観察してきて気付いたことがある。

 

それは「占いの結果」によって、占った人を「自由にするのか」それとも「制約を与えているのか」の違いだということだ。

 

今、目の前には数少ない選択肢しか見えない。それぐらい周りに追い詰められて、囚われて心が苦しくなる時がある。

 

そんな時に、ちょっと離れて視野を広げ、思ったより選択肢は多いなぁ、と心がラクになった時、人は内なる無限の可能性を引き出すことができるのでは無いだろうか。

 

困っている人に「占いの結果」で制約を与えてしまう人がいるとすれば、それは罪以外の何物でもない。

 

本来、私達の未来はまっさらな白紙。自分の道はいつだって自分自身でつくりあげられることを忘れてはいけない。