癒しの本質 (2)

「コーチングって上から目線な感じがしますもんね」と言われて、しばらく感じていた違和感を見事に言い当てられた気がした。

 

私はコーチングが人の役に立つと信じている。それはもう疑いようもない。そうでなければ2007年からこんなにも大量の時間を費やすことはなかっただろう。

 

それでも誤解を恐れずに言えば、もちろん文脈によるのだけれど、やはり「コーチング」という言葉からいつしかこの独特な「あなたを変えてあげる」といった若干マウンティングな響きが伴うのは払拭できない。

 

さらにもっと言うと私はコーチングを生業としている仲間達ももちろん応援している。実際に彼らの中にはベストセラー作家として活躍する方も多く、心から尊敬して止まない。

 

それでもなお、批判を恐れずに言えば、そもそもコーチングを学んだきっかけが「自分の悩みを解決したい」という動機からくる場合が多く、自分の状況が「少し良くなった」時点で他の人にコーチングをして、自分の問題をこじらせてしまうケースも多く見受けられるのである。

 

それこそまさに解決策を指南してくれると期待していたコーチングに裏切られたように感じる瞬間なのだ。

 

かくいう私も例にもれず、目一杯こじらせた。私はヒーリングから始まって各種セラピーを学び、心理カウンセリングを経てコーチングに至ったにも関わらずである。

 

一体、「癒しの過程」で何が起きるのだろうか。私なりにまとめると、日頃問題となっていることについて語っている時に、ふと身体の一部に痛みなどの感覚を感じるようになる。それこそが今まで無意識に存在していたものが、意識下に浮上した瞬間だ。

 

しばらく身体の痛みに意識を向ける。すると不思議なことに目を背けていた問題の原因やそのきっかけとなった出来事など色々なことが浮かび上がってくるのだ。

 

もちろん目を覆いたくなるどころか身体中の痛みに耐えかねてただひたすら泣くしかないような状況すら起きる。そんな時には無理せずに誰かに手伝ってもらえば良い。そういう場面でより沿う役割をしてくれるのがまさにコーチであったりヒーラー、セラピストなのだ。

 

ではコーチ、ヒーラー、セラピストってそんなに人を癒せるほどまでに達観しているのだろうか。もちろんそういう方々もいらっしゃる。要は自分自身、スッキリしていれば問題無いのだが、まだまだ修行中の身である場合においては「浮上してきた問題」に引きづられ、ミイラ取りがミイラとなりすっかり塞ぎこむケースも多い。

 

それはお手伝いした側がお手伝いされた側と一緒に手離しの機会を得たわけだから一石二鳥だとお祝いしたら良いのだけれど、それこそ手離しでは喜べなかった。

 

私を含めそんな人達を一体どれくらい見てきただろう。それくらい日々の生活で問題は避けて通れない。そう、生きていることが既にある意味「問題」なのだから、手離してはくっつきをひたすら繰り返すのだ。

 

いつまでこんなことを繰り返せば良いのか。ある時から私は問題そのものを楽しむことにした。どうせ取り除いてもまた沸いて出てくる、まさに無限ループそのものだ。だったらいっそのこと楽しんでしまえばいいし、楽しんでも苦しんでも平等に旅立ちの日が訪れるのなら、楽しまないことは罪でしかない。