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「通訳」というお仕事 パート1

今日はシンガポールの高島屋で通訳のお仕事をした。「ファンデーションと言えばカバーマーク」と言われる創業70年の老舗ブランドだ。日本人メークアップアーティストが来星、なんと無料でメイクアップを体験できる。まだ若干の予約が可能なのでこの機会を活用して頂きたい。

 

そしてカバーマークは、自らも顔にあざがあったアメリカの女性、オリリー夫人によって開発されたそうだ。そこにほとばしる情熱を感じ、もっと詳細を知りたいと検索したところ、より詳細に感動の秘話が掲載されているウェブサイトにたどり着いた。

 

以下は(みどり)皮フ科・アレルギー科http://midorihifuka.jp/information/covermark.html)のホームページより引用させて頂いた。経緯がわかってより感銘を受けた。感謝すると同時に皆さんにもぜひ読んで頂きたい。

 

◎リディア・オリリー氏の想いがカバーマークオリジナルに詰まっています。

 リディア・オリリー氏は1901年にアメリカのニューイングランド州ボストンに生まれました。左目の下に赤い斑点があったそうです。ポートワイン・ステインという血管腫と言われる病気であったと推測されます。医者からは、数年で消えるかもしれないといわれたみたいですが、実際は成長とともに大きくなっていきました。

 

 オリリー氏は、小学校の頃にこの血管腫が、当時の医学では治療ができないことを知り、性格は暗く、孤独な女の子になってしまったと言います(ポートワイン・ステインは現在はVbeamなどの色素レーザーを使用することでかなり改善が期待できます)。彼女の両親は治療にたくさんのお金をつかいましたが結局は改善をすることはできませんでした。

 

 やがて、彼女は大学に進学し、化学を専攻しましたが、孤独な彼女は絵ばかりを書いていました。その後恋をして明るくなりましたが、彼女の左目の赤アザだけは次第に大きくなっていきました。

 

 誰にでも悩みやハンディはあるし、ハンディの分だけ少しだけ努力すればいいと励まされたオリリー氏は、一生懸命努力し、勉強をしました。彼女は大学卒業後にニューヨークに行き、就職を探しましたが、赤アザという外見の影響で、希望通りの就職はできませんでした。

 

 再度孤独な状態に戻った彼女は、ニューヨークでも絵画に没頭しました。しかしその絵画を描いているときに、色が他の色でカバーできるということに気づきました。それがカバーマークの原点です。自分の顔に絵の具でカバーできることを知った彼女は研究を始めました。彼女は大学で化学を専攻していたこともあり、その知識を使っていろいろなのもので試してみました。最初はうまくいきませんでしたが、彼女の粘り強い努力でとうとう彼女自身が満足できる化粧品を作り上げたのです。それがカバーマークでした。今のカバーマークオリジナルには彼女の努力と熱い想いが込められています。

 

 カバーマークには、美しく見せるメイクアップという概念だけでなく、皮膚変色を美しくカバーし、心身ともに健やかな状態で過ごせるようにというメディカルメイクという考えがあります。

 

◎自分のために作ったもカバーマークが、人の役に立つものになりました。

 カバーマークは、当初は彼女が自分で使用するためのものとして開発したものでした。ある時に病院に行ったときに顔にアザがある少女を見たことがきっかけで、カバーマークを人の為に使ってもらうことを決意しました。そうして自宅の一角に相談室を構え、同じ様な悩みを抱えている人たちのたくさんの相談に応えていまいした。カバーマークは毎日使用するもので、安価で提供するべきであり、品質を保持するためには特許をとるべきだとアドバイスを受けました。しかし当時のアメリカでは、化粧品は特許が認められませんでした。オリリー氏は、カバーマークは、困っている人たちにとっては薬であると主張しましたが、聞き入れられませんでた。そこで彼女は裁判をおこしました。

 

 あざのある人に対してカバーマークは薬であると訴えましたが、判事の考えは変わりませんでした。1928年(昭和3年)のワシントン控訴院でもあざを持っている人たちにとってカバーマークがどんなに大切なものであるかを切実に訴えても心には響きませんでした。審議が終わろうとするときに、オリリー氏は自らの顔のカバーマークを拭き取りました。そして、あざで苦しみ悩み抜いたこと、カバーマークがあったからこそ救われたことを語りました。特許がなければ、高価なものになってしまう恐れがあることも話しました。傍聴席からは賛同の拍手があり、そうして8人の判事全員がカバーマークに対して化粧品としては初めて特許を認め、さらには国家が支援すべきものであるとして免税の措置までつけました。こうしてオリリー氏のカバーマークを用いたメディカルメイクが広く知れ渡る礎になりました。

 

 アメリカのカバーマーク社は、この特許が"cosmetics(化粧品)""pharmaceuticals(医薬品)"を合わせた"cosmeceuticals"をつくったと紹介しています。オリリー氏の作ったカバーマークが、皮膚に悩みをもっている方々にとっては薬同然であるということを言い表していると思います。

 

◎日本人で一番最初に使用したのは原爆に被爆した若い女性たちでした。

 特許取得の裁判と前後してオリリー氏は会社を立ち上げました。彼女はカバーマークおよびメディカルメイクをさらに広めるために必死で働きました。多忙を極め、人手としてメディカルメイクを広める技術者が必要でした。それがカバーマーク・アーチストという皮膚変色を隠すためのメイクテクニックと精神的な相談を受け付ける技術者にです。そしてカバーマーク・アーチストには彼女と同じ様な症状のある人たちを採用しました。同じ悩みを持ったものたちだけが理解し合える絆があるからです。カバーマークは肌をうまく見せるだけでなく、心のケアも含めていろいろな方の皮膚変色の悩みに応えていきました。

 

 1945年に太平洋戦争(第2次世界大戦)が終わりましたが、日本は終戦直前に、広島と長崎で原子爆弾の被爆をうけたくさんの犠牲者が生まれてしまいました。怪我や病気もさることながら、皮膚のケロイドも多くの方が悩まされることになりました。1950年に被爆した日本人の少女たちがアメリカにケロイド治療のために招かれ、その治療の補助手段として、リディア・オリリー氏の相談室を紹介されました。オリリー氏は、原爆の悲惨な現実に対して心を痛め、被爆者の若い女性たちにメディカルメイク技術と必要な化粧品一式を授けました。カバーマークを使用した被爆者の彼女たちは、生まれ変わって日本に帰国いたしました。

 

以上が引用文となる。「自分と同じ悩みを抱えた人達に解決法を伝えたい」という熱意は今も着実に受け継がれていると感じた。シミ、そばかす、しわ、ニキビ跡、長年生きているといつの間にかお肌に「勲章」が増える。それをどんどんカバーしてくれるファンデーションと彩りを与えるお化粧のおかげで表情までどんどん明るくなるのだ。メイクアップの役割とは内なる輝きを外側に反映させることだと改めて感じた1日になった。