「結婚運」って何?
「あなたにはもともと結婚運が無いのよ」私は立て続けに複数の「見える」方達からこう言われた。
彼らによると、「結婚運が無い」というのは「異性運が無い」ことも意味するらしい。
そしてもともと「結婚運」が無い私のような人が結婚すると結局は離婚、あるいは死別するそうだ。
おそらく結婚したとしても、もともとお互いに「結婚運が無い」者同士が出会ってしまうからそのような結果になるのかもしれない。
「婚活中です♫」というわりには頭が常に出家願望で大半を占める私は、むしろそう言われてホッとした。
人は生まれる前に自分で自分の生き方を決めてくるという。だから私も生涯独りで生きていくと予め決めてきたようだ。
良き理解者を得たかのように心の中からは違和感が消え去り「自己一致感」で満たされるようだった。
そうのんきに構えていたら「見える方」のうちの1人がこう言った。
「あなたは先祖のお墓を護るお役目があるのよ。だから結婚しないで家に戻るの」と言われた。
(えぇぇぇ、そんなことってあるの?!)
そう言われてみると思いあたるフシがいくつもあった。過去の数々の点と点の不思議なできごとが線でつながっていくようだった。
ただ、私には弟がいる。普通は弟がその役割を引き継ぐのではないのか。
その「見える」方いわく、その役割を弟に託し、今からでも頑張って「結婚運」に磨きをかければ、なんと「異性運」と「結婚運」の両方を獲得できる希望があるらしい。
(なるほど〜、世の中はうまくできている)、おめでたい私はちょっとその気になった。
そう、最後の望みの綱は「やる気」なのだ。
ハッキリ言って「見えない領域」の話はポジティブにもネガティヴにもどっちにもころぶ。結局は自分が信じたいことだけを信じるのが人間だ。
ぶっちゃけ私だって耳触りの良いことを集めて都合良く解釈をして悦に浸っている。
ヒトは注目されたところが増えるようにできているそうだ。良いところをたくさんほめればほめるほどそこがどんどん伸びるらしい。
だったらやっぱり私はポジティブなことを増やして気分良く毎日を過ごしたい。そうしてなんとなくでも「人生は自分の手で変えられる」と思えるだけで可能性は広がっていく気がするのだ。
「癒しの本質」(3)
南国の照りつける太陽のもと、駅まで歩く途中、ふと「Heal your soul, Live your life」というフレーズが降りてきた。
「魂を癒して自分の人生を生きる」と和訳してみた。これこそまさに私が一貫して伝えようとしてきたことだ。
「魂のクセ」というのはずっとそこにあるらしい。それをどうにかするために自ら課題を与えて、それをクリアにするために生まれてきたという説もある。
「魂のクセ」は「取る」と決めて「自分で取る」ものなので他の人に取ってもらうとなると無理があるらしい。
だから「魂のクセ」を取り除くお手伝いというのはある意味「余計なお世話」なのだ。自分の意志で持ち運んでいるものを他人がそれに気付いたからと言って「取りましょうか」というのは本人から「せっかくの貴重な学びの機会を奪う」ことになる。
なので自然とそういう側面で助けを必要としている方がどうしてもお手伝いして欲しい場合、またはお手伝いして欲しい様子だけれど言い出せない場合には「本人の許可と同意を得た上でお手伝いをする」というのが好ましいスタンスとなる。
これがきちんとしたステップなのだけれど、そういうのは無意識レベルで行われているのか、最近は全く別件でお会いしたにも関わらずいつの間にかそういうお話をする機会に恵まれる。
そして最近顕著に見受けられるのは、そんな相手とお話する中で気が付けば結果として、本人が納得するカタチで「魂を癒して自分の人生を生きる状況に近付く過程」を引き寄せていることが多い。
「魂のクセ」を少し取り除いたからといって即座に劇的に人生が変わることもあるが稀である。古いクセと生きるのは居心地がいいからまた戻ってしまいがちだ。生きている以上、無限ループの中にいるのかもしれない。
だから「癒し」はあくまでも「過程」だから「魂のクセ」との付き合い方を見いだして、うまく折り合いをつけていくことが大切だ。
それはひょっとしたらアトピー性皮フ炎やじんましんに例えられるかもしれない。ずっと治ったり治らなかったりしてあり続ける。
でもそのおかげで普段から食を含む生活習慣に気を配るので大病をしなくて良いという利点が望める。
コメディアンへの道 パート1
シンガポールに温泉ができた。日本人が経営しているので日本的だと評判である。
シンガポール人のコメディアンも早速行ったらしく体験談をシェアしてくれた。
「行くと小さなタオルを貸してくれるんだけど、正方形なんだよねぇ。しかもどうも小さいんだけれど」と話してくれた。
確かに日本では長方形なので、体の大きな男性が小さなタオルと戯れている格好を想像するだけで笑える。
「みんな堂々と隠さずにいるけど、やっぱり人の目が気になってなんとなく隠そうとしてしまうんだよね、こんな風に。」
と言うと、人がいる方向に合わせて小さくて四角いタオルで大切な場所を隠し、目線をブロックしようとしている仕草をかわるがわるポーズを変えて再現してくれた。
さすがはコメディアン。どんなポーズをとっても表情豊かでオモシロイ。ユーモアにあふれていてウケてしまう。
お友達と行ったらしく、男同士で思う存分湯船に浸かって温泉を満喫したそうだ。
ただしばらくしてどうしても気になることがあったらしい。それは男性がバスタブを出入りする度にちょうど目線の高さにくる他の男性のそれである。
「しばらくして友達が言うんだよね〜。」
「なんて言ったの?」
「ここってコックフェスティバルみたいだって。」
「(爆笑)」
そう、やはり英語でコックとはニワトリというよりもついそれを連想させてしまうらしい。
そんなこともあってか、酉年の今年、私は「Year of Cock」という表記を見て即座に大ウケした。彼の言う「コックフェスティバル」を連想したのだ。
「酉年って英語でYear of RoosterだけどYear of Cockという英訳も間違いでは無いよね?!」
自分の感覚に自信が持てずにいた私はコメディアンの彼になら打ち明けられる気がして思い切ってたずねた。
「Year of Cock!!!! (大爆笑)」
やっぱりオモシロかったらしい。良かった、新年早々、仲間を見つけた安堵感に浸った。
「うーん、でもそう言って私がそんなことばかり考えている人と思われても困るし。」
「(笑いながら)ただやっぱりその意味合いが強いのは確か。」
なるほど、いつまでもぶりっこしていてはいけないと強く反省したエピソードとなった。
数日後、コメディアンの彼からメッセージがあった。
「時間があったら聴いて〜」
なんとそれは「Year of Cock」をネタとした自作の歌だった。コメディアンはプロの音楽家でもあるので普通に出来映えが素晴らしい。
これでもかと言わんばかりに何度も繰り返される「Cock」が頭の中を埋め尽くす。しかも耳に焼き付いて離れない中毒性のあるメロディー。
これぞまさにコックフェスティバル以外のなにものでもなかった。
しかも彼の情熱はとどまることをしらない。なんともうすぐ動画も完成するらしい。
「こないだあなたのことについてブログに書いたけど大丈夫だった?」と伝えると「僕のことだったら何でも書いて良いよ〜。」と言ってくれた。
コメディアンになるにはこれくらい寛大でなくっちゃ。動画が出たら早急にシェアしよう。
英語でウケるには
海外生活も長くなると、外国人から日本の「秘密」を教えて頂くことがある。
先日も親日家とお話をしていた時のこと。日本で出会ったお気に入りの商品を母国に持ち帰って販売しようとしたらしい。
意気揚々と検査機関に持ち込むも、公的機関で成分を調べてもらったところ、即破棄するように言われたそうだ。
「なぜか世界では禁止されているのに日本でだけ認められている成分があるんだよね〜。不思議だけど。」
シリアスな顔をする彼に向かって私はこう言った。
「だから日本人は長生きなんだね♫」
「(一同爆笑)」
本当のところを言うと、(「世界では禁止されているけれど日本では許可されている」とはどういうことなのか)内心、凍りついていた。
とはいえ、その場にいたのは私以外、全員外国人である。ともすれば同情を誘い深刻な話になりかねない。が、そうなったところでどうしようも無い。
「笑いは大いなる癒しをもたらす」を実感した瞬間だった。
7才の時に私は「コメディアンになりたい」という夢を描いた。夢は全部叶えたいと気持ちを新たにした矢先、コメディアンと一緒にお食事をする機会に恵まれた。
「早めにディナーが終わったらデザートも食べに行こう!」
「デザート♡♡♡♡♡」
ディナー後のアポまで時間が無いと思っていたのにディナーを早く済ませればデザートを食べられるなんて!!
まさかデザートがこんなにもモチベーションをアップさせるとは気が付かなかった。瞬く間にディナーを終えた私にコメディアンはこう言った。
「ものすごい早食いでびっくりしたわぁ、軍隊のトレーニングかと思った笑」
「(笑)(恥)」
それ以来、彼はことあるごとに私に向かって「早食い」と言う言葉を繰り返すようになった。
「別に早食いはワルいことじゃないよ」
「早食いしなくていいように最初からデザートがおいしいところで食事をすれば良かったね」
「今日も早食いしてるの?」
などなど枚挙にいとまが無い。その度に恥ずかしくもウケにウケてしまう。
ある時、私はどうしても耐えきれず「実は7才の時からコメディアンになるのが夢だった」と告白した。
コメディアンにそんなことを言ったらどう思われるだろう、ますます笑いモノにされるに違いない。
そう疑わず信じていたところ、意外にも心優しく爽やかに教えてくれた。
「まずは自分の短所について、自分でネタにして笑いとばすこと。先に自分で自分の短所を笑っている人に対して他の人はイジれなくなるから。」
「なるほど〜、確かに!」
「実はこれは学校でいじめられるのを防ぐ意味にもなるんだよね。」
「おぉぉぉ、それは奥が深い。」
「自分をネタにした後には他人をネタにする。」
「へぇ〜!」
「だからこれからもずっと早食いって言うからね。」
「(笑)(恥)」
おかげさまでゆっくり食べる習慣が身に付き、体調もすこぶる良くなるというオマケにも恵まれている。
「婚活コーチング」の実態
私は自分が独身で彼氏がいないにも関わらず性懲りも無く人の婚活相談に乗っている。自分のことはさておき人のことはよくわかるものだ。
いったん自分のことは一切棚に上げて相手には率直に感じたことを伝える。そうするとアドバイスがある程度まとまってくる。他人事だからってよくもまあそこまで言えたものである。
そんな自分にすら存分に呆れ果てた暁には、それをそっくりそのまま自分に当てはめれば良いので、一石二鳥とはこのことだ。
そんなこともあってかコーチのお友達とおしゃべりするのは楽しくてやめられない。ほぼ間違いなく終電までしゃべくり倒す。
そしておしゃべりする中で得た「気付き」をもとに「学び」を抽出。さらに実際に行動に移すための「小さな一歩」、いわゆる「ベイビーステップ」に落とし込むのだ。
私は誰がなんと言おうと「気付き」「学び」「成長」の3点セットが大好きだ。こういうのを幼稚園の時に教えてくれるコーチがいたら私は今頃違った人生を歩んでいたに違いないと信じて疑わない。
一方で「そういうのにハマる人ってどうよ」などという意見が存在するのも知っている。そんなことをおっしゃる方にはこの3点セットを上回るほどのものが何なのかを教えて頂きたい。
それはさておき「たくさんの人と出会ったんだけどことごとくタイプではない」そんな時にはその「理想とかけ離れた様子」を一つ一つ書き出すことをオススメする。
例えばこんな風な人がニガテだとしよう。
「無口過ぎる」
「マナーがない」
「海外経験が無い」
などなどニガテな人となりについてどんどん項目を挙げていく。せっかくの機会なので洗いざらい納得がゆくまで書き連ねよう。
そして次にその項目を逆にして、適度に自分の好みにあてはまるように書き換える。
「適度にしゃべる」
「レディーファーストを心得ている」
「海外経験豊富」
そうすればあっという間に「引き寄せたい理想の男性像」が浮かび上がる。
そして次にそんな理想のタイプはどこに生息するのかを突き止める。そして自らもそこにあしげく通えば良いのだ。
ただせっかく理想のタイプの「生息地」を突き止めたとしてもそういう場所に突然ポツンと現れても相手も困る場合が多い。
唐突過ぎて「初めまして」「さようなら」とすれ違い、せっかくのチャンスを逃してしまうこともあるだろう。
よってやはり周りにいる「幸せな既婚者」にご紹介頂くのが良いと思われる。もっと言うと「キューピッドになるのが夢です♡」という方にお願いして「理想のお相手の条件」をお伝えしておつなぎ頂くのがベストだろう。
あるいは「お金があってもヒマがない」という方は「結婚相談所」などを活用するのもすばらしい。実際に周りに成功者がいるので信ぴょう性も高い。年齢層もかなり広いらしいのでアラフォーも安心らしい。
いずれにせよ、結婚に辿り着いた方々に最近私がインタビューを重ねた結果、わかったことが1つある。それはたった1つでも良いからどうしても譲れないと思っていた点を妥協するということだ。
最近、結婚したばかりの幸せなお友達(男子)いわく、「もし女性が薄毛の男性に対して寛大になれたなら相当チャンスが広がるよ」とアドバイスされた。
さらなる聞き込み調査を行った結果、あくまでも「薄毛」というのは単なる一例に過ぎず、「喫煙」や「タトゥー」など自分が苦手としていることにも置き換えられるようであった。
確かにそういうニガテを乗り越えたということは「以前にも増して他人を大目に見られる」ようになるわけだから、結婚して子供を産み育てるという「寛容の極み」への第一歩を踏み出すことになるのだろう。
結婚へ至る道は千差万別。今年こそは相当寛容に私を受け止めて下さる相手を見つけたい。
「今年こそ英語を話せるようになりたい」人たちへ パート1
「どうしたら英語がもっとうまく話せますか?」とよく訊かれる。そう訊かれる度に私は「どんな用途で話せるようになりたいのですか?」と訊くようにしている。
ひとくちに「英語を話す」と言っても、そもそも「英語」にはいろんな種類があるし場面もある。私は幼稚園の時から海外に憧れていた。小学生の頃から英語を学ぶ機会に恵まれ英文科を卒業したが、実際に「生きた英語」を学んだのは社会人となりシンガポールに赴任してからだ。
周りを見渡すと英語力が飛躍的に伸びているのはやはり恋人あるいは配偶者が英語を話す方々である。お互いをよく知るために自然と上達しているパターンが圧倒的に多い。まさに「愛の力」の為せる技である。
ではそれ以外のパターンについて見ていきたい。やはり必要に迫られているケースで言うとキャリアといった場面だろう。仕事で必要不可欠な場合、「必須科目」となり背水の陣で挑むうちに自ずと身に付いてくる。
ということは「今年こそは英語を話せるようになりたい」と考えている人はどういう人達なのだろうか。ズバリ「英語を身に付ける」ことそのものが特に「緊急性もなければそもそも必須ではない」方達なのだろう。
新年早々、早速突き放されたとショックを受けておられる方もいらっしゃるかもしれない。耳が痛いかもしれない。でもそれは紛れもない事実である。
かくいう私も「英語」という単語を「結婚」に置き換えれば「我がごと」である。なので「英語ができるからってエラそうに」と思わずに大目に見て最後まで読んで欲しい。
ここで着目して欲しいのは、事象を問わず「内容そのもの」である「コンテンツ」にとらわれるのではなく、抽象度を上げることによって視座を変えて「文脈」や「前後関係」と言った「コンテクスト」をどうとらえられるかといったことなのだ。
人は常々「我がごと」となると真剣に深刻に捉えがちである。そして冷静な判断を下せない。だからこそカレンダーが変わり、しばし浮き足立ったような気持ちで訳もわからずウキウキする今のうちにどれだけ「自分をネタに遊べるか」が重要なのである。
では「緊急性もなければそもそも必須ではない」場合にどうやったら「今年こそ英語を話せるようになる」のか。
やはり一番重要なのは「英語が話せるようになった時に何がしたいか」である。私の場合、英語が流暢に話せるようになった暁には「ディベートで相手を論破したい」というのが兼ねてからの目標だった。
負けん気が強いからいうのはもちろん否定できない。その上「英語が話せないと対等になれない」という気持ちが強かったからだ。当時「勝ち負けで物事を決める」世界に生きていた私らしい。
しかし、長年の海外生活を送った結果、目標が逆転してしまった。今となっては「関西流のお笑いで相手を抱腹絶倒させたい」というのが日常の課題である。「笑い」が「瞬間的に心をつなぐツール」だと知って楽しくてしょうがないのだ。
なので「今年こそ英語が話せるようになりたい」のであれば、ぜひとも「それを実現している場面」をより明確にして欲しい。
いつどこで誰と何をしている時なのか。それはどれくらい先のことなのか。クールジャパンプロジェクトのおかげで日本にいたって外国人と触れ合う機会は星の数ほどある。今すぐ外国人が集まる観光名所に行ってボランティアで日本文化を紹介してみよう。
私自身も高校生の時に京都で海外から来られた西洋人の老夫婦にパンフレットの場所を問われたことがある。緊張しながら少し離れた置き場所を指差し「Up there」と答えると「英語がとってもお上手ね」と褒めて頂いた。たった一言でこんなに喜んでもらえるなんてと感激したのを懐かしく思い出す。
とはいえ私もいつも褒められたわけではない。この何千倍も何万倍も「???」と不思議な表情を返されてきたことがある。日本人の私には日本語のアクセントがあり、英語であったとしても切り出し方が日本風なのでよく理解されなかったのだ。
その度に相手に対して心密かに「でもあなたは日本語できないでしょ?」と思っていたのは事実だ。負けず嫌いにもほどがあるが、好き好んでアウェイに乗り込んでいる以上やむを得ない。
誰だって最初から自信があるわけではない。小さなことを積み重ねた結果、自信は大きくなるのだ。誰も褒めてくれなくてもいい、自分が褒めてあげればそれで良しとしたい。
新年の抱負「ほめ上手になりたい」
世の中にはほめるのが大変上手な方がいる。
10年以上ぶりに出会った同僚と昔話で盛り上がった時のこと。「『とてもお上品な声で話すこれぞ日本人といった女性がいる』と評判だったよ〜。」と言われた。
ほぉ〜、私はそんな風にシンガポールのローカル人にほめて頂いていたとは知らなかった。
「オフィスのどこにいてもゆみちゃんのバカ笑いが聞こえるよ〜(爆笑)」という「耳撃談」はよく耳にしていただけにその大きな落差に衝撃を隠せない。
私は関西人なので、このようにツッコまれることを大いに望んでいる。というか、むしろ、いつなんどきツッコまれてもいいように人より若干長めの「ボケしろ」を用意して24時間臨場体制で臨んでいる。
常に「ツッコまれる」ことを前提に受け答えをするのが習慣になり、今ではほぼ無意識レベルでボケ倒しているようだ。
特に飲んだ時などはその傾向がいつになく増し「おもしろすぎる」と悶絶されるが、自ら発した言動の詳細についてはほとんど覚えていない。
大学卒業まで関西生まれの関西育ちであり、吉本を観て育った私は、「ボケとツッコミ」は全国区で認知されていると思い込んでいた。これがものすごい思い込みであることに気付かされたのはまあまあ最近だ。
以前、東京の方とお話した時には「なんでそんなにずれたこと言うの?」とマジギレ気味に言われてキョトンとなった。国内で激しく「異文化ギャップ」を感じた瞬間である。
東京では受け入れられにくかったが、それをそのままシンガポールに持ち込んだところ、思いの外、あたたかく受け止められたような気がする。
シンガポールはオフィスに外国人が46%いると言われているくらい多国籍国家だ。宗教も人種も年齢も性別もLGBTの垣根を越えてみんな一緒にお仕事をしている。
「みんなちがって、みんないい」という金子みすず氏のフレーズを思い出す。資源の少ない国の国家戦略とはいえ、多様性に対するリスペクトが根付く環境で私は大いに恩恵を受け取っている。
電車の中で見かけるお年寄りや妊婦さんへの思いやりもすばらしい。老若男女問わず瞬時に席を譲る。先日もお年寄りがさらなるお年寄りにサッと席を譲る姿を目にして感銘を受けた。
そのせいだろうか。シンガポールにいらっしゃる方は違いを寛容に受け止め「人となり」をポジティブにとらえて上手にほめる方が多いように感じるのだ。
前述の私へのほめ言葉も、ほめられている私よりもほめているその方のお人柄や品の良さが際だっている。私もそんな風に心に残るほめ方が瞬時にできるようになりたい。
「10年前はカンペキな人というウワサだったのに、まさかこんな天然ボケだったとは」と絶句する元同僚を尻目にそんなことを感じるシンガポールで迎える年始に寄せて。